見出し画像

おおきくてつよい

今日はカラスの集会みたい。

100羽は超えている数のカラスが飛び交うと壮大。

翼を広げた真っ黒のしなやかな飛行隊
窓の外、私の頭上を越えていく。

早い夕焼けの雲間からは、何が舞い降りてもおかしくない。
濃い茜色の木々と、真っ黒の鳥たち。
いつにも増してにぎやかな集会のゆくえを眺めてた。

大勢のカラスが木の枝に鈴なりにとまっていても
私はその光景をただ、そこにあるものとして眺めてた。

後で、あの(ちょっとグロテスクなカラスの集会)風景をただフラットに眺めていたなあ、私は判断をしなかったな、と振り返った。

変わったカラスの集会に確実に影響を受けていたのに、私はネガティブな解釈を加えなかった。

黒の集団がいななき、寒空に舞っては集まり、また舞う姿を見ても、私は私のままだった。

なにかを足そうとしなかった。



私は目の前にあるものに
意味付けをする癖がある。

なぜか子供の頃から、転がっている石も
私が右足から踏み出したのも
意味がある

と思ってしまっていて

目に映るものに『なんでかな?』と現実の真意を探ってしまい、そしてそういう意味を感じる自分を良いか悪いかとジャッジする、というややこしい癖があった。

そう、ジャッジするんだ。

現実で目にするものは、なにかの啓示であり、戒めであり、気付きであり、導きや目的や方向性や教えである、というような、ややこしい観念。

意味を見出だそうとする。

つまり
もともと根底から『私は足りていない存在』であり
『なにかを身に付けなければならない、気付かなければならない』そういう者として、生きてきた。

成長なんて言葉をここに書きたくもないくらい、イヤってくらい
成長するということが生きる事の大前提なのだ。

そういう生き方はもういらん
修行はもういい。

外に振り回されたくなかった。

成長への欲求と成長への忌避が引き合いしている。



『自分軸』とよく聞くけれど

まさしく『自分が軸』なのであって、この世界の主体で生きているはずの自分が、外の現象によって揺り動かされるのは、もう終わりにしたいと思っている。

仕事がうまくいってるからとか
人間関係がうまくいってるからとか

だから私は幸せなのではなくて
そういうことを叶えるために生きているんじゃなくて

外の現象に関係なく、ただ幸せで在ることをしたいんだ。

何をしたから幸せなのでなくて
足すのでも引くのでもなくて
幸せな私がなにをするかを感じたいんだ。

いつも私は自分の変化の流れが遅いと感じていた。
焦りだ。体感で云うなら、微細な震えだ。

アンカーをうつ必要があった。
じっとしていること
ここにいる。軸をうつ。止まる。
焦りの人生に終止符をうつ。
足踏みを、自ら止める。

お腹をすかせないことが大事だ、と思った。
(食べる意味を考えるな)
お腹をいっぱいにして、ぼーっとするくらいでOKなんだ。
なにもしないで、生産性のない時間が本当に必要だと思った。

何かの役に立つために人は生まれた、という言葉に『NO』と言う。

周りをいかに幸せにするか?
人への貢献?
ありがとうの数?
自分の欲求を満たすだけでは駄目?
学んだ事を行動で周囲に役立てなければ意味がない?

私は『NO』という。

役に立つために生まれてきたんじゃない。
ぜーんぜんちがう!

与えようが与えられようが
寝ようが働こうが
好かれようが嫌われようが
ほんとうに、ただの『好み』でしかない。

私たちは、それを越えた存在だ。

意味を越えた、まったくの主体だ。
使命感とかなんとか

もっともっと、そんな意味より解釈よりも

もっとおおーきくて、自由なんだ。


これからも現実をみて、自分の内面に気付くのは変わらない。
私にとって現実とは、『そういうもの』
私はいつだって『なにかな』と思うだろう。

けれど、ただの意味付けに
それに引っ張られない。

主軸は私だ。

自分は何かを成すよりもおおきく
もっと自由だ。

だから、ここにいるんだ。

存在している事だけが、その意味をあらわしている。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?