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優しさの理由

人助けって、しますか
それは、身近なことですか

人助けと呼ばれるものは、自分では意識できないことばかりだ。
生きていたら、人助けをしている。

あなたはいい人ですか
そのように、見られますか

私は、いい人じゃない人なんて、居ないと思う。
息を吸って吐いている人は、全ていい人に決まっている。

「お父さんは、人に優しくするのが好きな人だった。ひとに優しくすることの出来る、そういう自分が好きなのよ」
と、聞いて
「んーーそれは違うと思います」と否定した。
「それは…違うんですよねえ」と言った。

自分はどうして「優しく」するのか?
なぜ、人に対して優しいのか?
どこから優しさが湧いてくるのか?

自分の行為を振り返り

承認欲求だろう、とか
皆に好かれたいから?とか
そのような人間になりたいから?とか
自分の気が弱いから断れないの?とか

空気を察し、自らが犠牲になる事でその場が丸く収まるほうが安心するから動いてしまう、本能で争いを避けている?

など、自分の優しさには、なんの理由があるんだろうか?と、自分の行動の真意を見つけようとしていた時期が、私もある。

つまり、私達は
損得なく優しいと、なんかオカシイのではないかと思う社会に生きている。

いい人である自分自身が好きとか
認めて欲しい欲求があるからとか

理由があって
人はナニカに優しくするのではない。

理由なく
人は、優しいんだ。

生まれてから、社会の中で生きていくなかで、たくさんの事から自分を守ってきた。

うまく社会の一員となるため身につけてきた、攻撃と防御の種類は数しれない。

威嚇も
へつらいも
泣きも
拗ねも
笑顔も
攻撃と防御の一手だと、思っているから
優しさもその中の手段と思ってしまう。

自分は手段によって、この世の中を生き抜こうとしている、と思い込んでしまっていて

無意識にそんな自分のことを細かく評価している。

「いい人が良い」という教育や倫理、価値観によって、人は、優しい人になっていく、と思ってしまうんだ。
(それは、自分は違うと評価していると同じことだ)

勘違いである。

無意識的に、非常に勘違いしていることが、分かった。

なんでかというと、自分を見ているからだ。
優しさがどこからくるのか、もう理解した。

「理由はなかった」
とわかったんだ。

優しさとは、スタンダードだ。
それは
する行為でもなく
生きる知恵でもなく
目指すものでもなく
人間関係を円滑にする本能なんかでもない。


自分につけられた装備というより
生命とは優しさそのものなんだ。

私達は、恐れがなければ優しさしかなくなる。

助け合っていかなくてはならない
のではない。
助け合うしか、出来ないんだ。

親切にしよう
ではない
徳を積もう
でもない
一日一善
なんてとんでもない

勘違いをしている。

私達は一部だ。
窓の外の木と一緒だ。
木は、隣の木と、遠くの木と、生えている草と鳥と、虫と、落ち葉と、微生物と、土と、石と、物凄い数のものたちと、ミクロで深くて混じりあって助け合って、生きているだけで、そこにあるだけで、そのまんまで、お互いが助け合う優しさだけで、存在している。
私も同じだ。
なんだ、同じだ。窓の外のあれらと同じだ。

存在していることが、優しさなんである。
助け合うしか出来ない。他を生かすしかできない。存在とは、ただ単にそれだけのことなのだ。

自分を生きているということは、他を生かしているということに他ならない。
私達は、それしか、絶対に
できないんである。

こびりついた恐れを、1枚1枚外していくと
木と同じだ。

私たち、生命とは
いや生命だけじゃない。あれもこれもみんなだ。
あれもこれもみんな、自分のためになんか存在出来るわけないんだ。
自分とは、一部だということだ。


なんにも考えること、ないなー

だんだん、自分のことを考えることが少なくなってきて
言葉や思考が減っています。
生きてます。
いきいきと。

思いついて書きました。
ではまた!






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