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永遠に途中

死んで地獄に行くかも知れないと思っているお年寄りは、びっくりするほどおられる。

それはファンタジーだ。
理解を促そうとする「方便」でしかない。

「人生のなかで苦しむこと」を「地獄」と表現して、それらを使って説いているに過ぎない。

何を説いているのかというと

みんな勘違いしてるんよ

という説明である。

恨み、妬み、怒り、悔しさ、悲しみ
そういう自分の気持ちで
まるで火にあぶられるように辛い。
不安や苦しみが
針山のようにこの身を痛める。
頭いたい、お腹いたい、胸がつまる
眠れない、泣いてばかり、助けてと叫びたい

それって地獄なんだよ~
そこは地獄やで~
ということだ。

その次にある「餓鬼道」は
欲しくて欠乏している状態だ。
安心が欲しい、優しくして欲しい
同情して可哀想と思って
みんなにチヤホヤされたい
お金が欲しい、愛がほしい
きらびやかな生活で、認めてほしい

ずっと求めてしまう辛い状態に陥っている
餓鬼とは私たちのことだ。

その次が「畜生道」だ。
獣のことではない。やっぱり私たちのことだ。
自分が正しいと思っている。
こうでなければと頑なである。
自粛パトロールのことだ。
正しいことをすると、自分が正義の側になれるから、自己肯定感を安易に得ようとして悪者をつくりだす。
もし些細なバッシングに夢中になっていたら、自分は畜生の状態となっている。

その次が「人間道」だ。
人間とは、多角的に物事を見ることができ、色んな考え方を身につけることで知恵となる。
生老病死の四苦八苦のなかで、受け入れ、許し、悟ることができる唯一の状態だ。

その次が「修羅道」といわれる。
修羅道が人間道の前という説明を見るが
私が個人で知ったのは人間のつぎの位置だったので、どうなのか全く知らないがこのままいく。

修羅とは、やるべきことが見え
邁進することだ。
人を助けよりよい世の中にしたい
一位になりたい
自分の表現をしたい
なんとしても、やりとげたい。
夢中で達成へ向かっている状態だ。
映画で復讐を遂げる主人公。
老人と海。
三島由紀夫。

本気で向かう状態は、時には人を傷つけるし、自分も傷つける。だから、阿修羅像はもの悲しい顔をしている。

そして、やりとげたあとには「天上」である。
喜び、達成、充足感。幸せ。
天上に達した。

天国にいくこと?
いいえ。

天国もファンタジー。
ゴールは無い。

人は誰しも
この六道を繰り返し繰り返し体験する。
どれも経験する。一生のうちに何度も。

1日のうちに
畜生と人間をいったり来たり
1年のうちに
天国と地獄をいったり来たり

みんなが知ってる。
みんなが居る。
私もあの人も。
それはこの世のことだ。

どれも脳内で作り出してる劇場だよー、個人的な上映だよー、その状態に囚われないで
そこを
抜けてみて!

抜けれるよ!

地獄や天国とは、私たちが日常で陥る状態のことを指して
そこにいる限りは救われないのだと説く。

その状態は本当の世界ではない。
勘違いしている。

その輪廻を抜けるんだ、と
対比させて「いま」を説く。

死んでから行く場所のことではない。
生きているいまを教えてくれている。

ハムスターの回し車のように、人生でぐるぐるまわりつづける六道輪廻は、実はアンタ抜けれるんやで、と。

回し車を降りて
立ち止まること

それは
よりよく生きようとする自分

もっといいものがあるはずだ
まだ充分でない
そう思っている自分を、抜けることだ。



ぐるぐるといったり来たり、死ぬまで思考で繰り返し経験しているこの世界を抜けるのは

寝ているときと、瞑想しているとき。
どんどん寝よう
瞑想しよう
現実から一歩引くんだ。

瞑想でマインドフルネスというと
「感覚を研ぎ澄ますため」「健康と美容のため」「効率的に物事を進めるため」に行う人が多いかもしれない
それは、六道の中から抜けるという意味を持たない。

自分の成長を追えば、それは回し車の中だ。
自分という劇の上映は繰り返される。

進まない。立ち止まる。
やめる。手を引く。

回し車を降りると
そのとき、自分から、社会から、役目から
脳内でそうだと思い込んでいた
幻を抜ける。

それが、解脱やで。
それ以上のものもそれ以下のものもなにもないんや。

天上も天国も
ほんとうは目指すところはない。

生きるのはなんのためでもなく
どこへたどりつくでもなく
成すことはなにもない。

木のように
水のように
雲のように
私たちも
ただ、あるだけ。
あるだけをみれば
さて、なにものでもなく
はては
ただここにあることもなくなってしまう。

解脱がゴール?
いやいや、それもない。

また進む。
進まずにはいられないこの世の理。

一瞬一瞬訪れるこのとき
餓鬼の自分、畜生の自分…
それその状態、事実は果てしなくつづく。

途中と思っているものがもうすでに結果であり

事実というのは、このプロセスのこと。
プロセスが目的で
これこの回し車のなか
道のりを求めて
現して生きている。



最近、バタバタしている。
季節の変わり目

行動も精神も変動がある。
目まぐるしく振り回されているなかで
ふと何度も降りる。


そうでなければやってけないよ。

なんだか起伏があるほうがブログ書いちゃうのかな?(電車のなかより。空腹。)





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