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幸せになる方法

幸せになる方法
それがあるとすれば、私は「理解すること」だと思う。

理解するほど、幸せに近づく。

理解の方法は様々だろう。
経験を通すひとや、読書や見聞を通すひと
人との関わりもあれば
虫との関わりだけで幸せに到達することもあろう。

極めて多くの人が「不幸」に陥るという、人間関係を例にとると
ひとはみな自分のことしか興味がない
という理解は役に立つ。

マンションの階段で、部屋の真下の住人とすれ違った。
「こんにちは」「こんにちは」
狭い階段で一瞬のすれ違いに緊張が走る。
ピリッとした空気に困惑する。

あ、私、昨夜うるさかった?
うるさい嫌な女だと思われている?
なんか、雰囲気が怖かったもん。
怒ってるのかも知れない。

階段を上がって自宅のドアを開けながら、自分が非難されてないか心配で、昨日の行動をなぞる。
しかし、はたと気づく。
相手は私を悪く思うより先に、きっと自分の心配をしているだろう。私と同様に。自分が近隣住人にどう思われているかを。


私たちは自分が傷つきたくないだけで
人を傷つけたくて何かする人は、まずいない。

自分自身よりも人のことにエネルギーを注ぐ人は存在しないからだ。

結果として自分以外の誰かが傷つくような事になるのは、ただ自分の心やエゴを守っているだけだ。

傷つきたくないからゆえの態度や行動や思考で、人は自分を守るのに精一杯なんだと理解すれば、悪人なんているのかしらと思う。

私たちは大統領から2歳の子供まで、みんなみんなただ傷つくのを恐れているだけと理解すると、ネガティブな人間関係があっても受け流せる。

人間関係について考えることと考えなくてもいいことを仕分けできる、それだけでも利益は計り知れない。


また、多くの人が不幸に陥る「お金」についても、理解するほうが幸せになれる。
お金にまつわる束縛を自分で解くことになるからだ。
お金は便利で素敵な発明だけど
恋人と一緒で、お金に縛られると不幸になる。

本当はお金がなくても食べていけるし生きていける。
お金がなければ生きていけないという思い込みは、まるで恋人に依存するようなものだ。

人は助け合えたらお金はいらない。

自分のことは自分でするとか、人に迷惑を掛けないなどの呪文の意味を
我慢しろとか甘えるなとか、自分で責任を取れというような意味ではないと理解したい。

前世代でつくられたこの言葉。私は介護の仕事のうえで、この呪文を口にするお年寄りと向き合っては、辛かろうと思ってしまう。

自分のことは自分で
人に迷惑をかけない
(そしてお金を握りしめる)

そのような努力は、喜びをもって本人が自主的、主体的にするものだろう。

人に迷惑をかけない解放感
自分がしたいことをする自由
その喜びのない状態では、もはや自主性を失ってしまっている。

本当は実在しない、社会的な脅威に気持ちが動かされて「迷惑をかけてはいけない」と反芻しているだけだ。
妄想である。

第三者が努力しろと強制する権利は(親だろうとなんだろうと)誰も持っていないのだ。
努力しなければいけないという義務など存在しないし、そこに責任なども決して生じない。

妄想が言う。自分のことも自分で出来ないのに、人や社会の役に立てるか?

我々は何かの役に立つことを押し付けられがんじがらめだ。
何をせずとも充分に価値があることを、大人になると忘れてしまう。

黒船の脅威で
西欧諸国のお金と武器とを目の当たりにして、日本が植民地になるかならないかの瀬戸際で
必死になって行われた富国強兵政策は、教育も金融も家族も土地も、暦から宗教から風習までひっくり返した。

その経験を得たからこそ、理解が可能となった。150年前よりも理解できるはずだ。

ただ自分のしたいこと、出来ることを他者へ寄与する。
それが当たり前になればもう生きるために多くのお金は要らなくなるだろう。

助け合いたくない人にとっては、素敵な発明の「お金」がセーフティネットとなってくれる。

人に頼るのが嫌いでも頼られるのが嫌いでも、お金があれば、生きていける。どんな人でも助けてくれるのが、お金だ。

私はMMT理論は、未来の金融だなあと関心している。
お金とは、便利で素敵な自由の象徴だと思う。

お金を沢山稼いで貯めて、身の回りの人を幸せにすることは資本主義の原動力だ。それも幸せのひとつだろう。

理解したら
なんだっていいんだ、ということがわかる。
それは幸せを選択することと同じだ。
自分なりの幸せを選ぶことができる。


もうすこし理解を深めて幸せに近づく。

無いのではない、無いと思っている自分がいるだけだということ。

私たちは、自分が価値を感じているものが欲しい。
お金とか才能とか愛とか幸せとか。
なかなか手に入れられないと思っているものが欲しい。

自分が価値を感じていないものは、欲しない。
つまり、欠乏感がないところに欲望は生まれない。

親がいたら他の親はもう要らないし
自然に囲まれていたら温室はいらない。
地位や影響力を捨てる人もいる。

欲しいから、無い。
欲しいほど、無い。

あると理解したときに、それは手に入っている。あると思ったらある。

それを理解したうえでまだ、最後の仕上げがあるんだ。これが本当に幸せになれる「理解」

それは、自分はちっとも理解はしていないし、理解なんて出来ないんだ、と諦めることかなと思う。

仕事の事だったり、相手の事だったりなんでもいいと思う。本当に自分は理解している、と自信に満ちていたことが
自分はちっとも解ってなかった
そう思えたとき、笑える。
なんてすがすがしい。

なんもかんもが理解をこえて
プッと吹き出すような
にやけてしまうような

無理だと認めたとき
手放せる。かるくなる。

軽い。
自由だし、静かだ。

これだけかーと。
自分がここにこうしていることだけかーと。


そのまま幸せの中にいる。

秋空ばんざい

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