街は美しく映る
毎日まいにち、窓から展望台が見える。
ビルのような展望台の翠色のガラスの内部が透けて見えるけれど、そのなかに人影があることは少ない。
夜にはそのガラスの内側に
昼間は見えない非常口看板の緑のランプだけが光っている。
私はその暗闇に必ずボウッと浮かび上がっている夜の非常灯と『目が合う』気がしてしまい、あの非常灯からうちの方を見てみたい、と思っていた。
木々の向こうの展望台の屋上には、空に向かって避雷針が二本、触角のように延びている。
ときにはその屋上にカラスが大勢とまっている。
晴れの日には夕焼けが反射するし、広い空の手前の展望台とその手前に重なる木々は、私のお気に入りの視覚造形美術となっている。
お盆のさなか、展望台に登ってみた。
たったの8階だったけれど、大阪北区のビル群、関西空港ゲートタワービル、葛城山脈など360℃見渡せた。
見たかった自分の自宅周辺は、思いのほか木々のうっそうと生い茂るその奥の眼下に見え、こんなに深い雑木林だったのかと、陽射しを浴びて光る緑の海に満足した。
私は「自分以外は全員、みんな悟っているんだ」とよく呟くことがある。
なにか、私が人を助けられるような、私がなんとか相手の苦しみを軽く出来るんじゃないかと大それた気がしたときに、呟く。
私に何か力があって、ひとを私が上の立場で引き上げられるような錯覚が湧いてくるので、おいおい、なにを勘違いしとるんだ全ての人は完璧なんだ、と思う。
私がどうして相手を弱く見て辛く感じてしまうのかと内省することもあるけれど、呟いてそのような見方を軽く手放すだけ、ということも多くなった。
軽くって、いいことだ。
その人の力を信じることが役目だと思う。その人の力というのは、その人の周りに居る人の力も含む。その人に関わっている人全員の力を信じる。
私があれこれ考えて先回りして良いところを見せようとしなくても、私の力の及ばないところでみんなが(上手くいくとか下手にいくとか関係なく善く)してくれているんだ、と思う。
ケアマネージャーの仕事においても、こうした自分のスタンスは確実に私の仕事の雰囲気を変化させてきた。
いまや、ワガママとか利己的とか何でも人に依存するような人と関わらなくなっている。
厄介なひとは私の現実からいつのまにか姿を消してしまった。
それは、ほんとうに展望台から街を眺める安心感と同じような感じだ。
何年も前の私は街を俯瞰して見ていると、どこか不安だった。街の衰退や崩れ落ちるさまを想像した。その中にひしめく大勢の人間の生活を儚く感じた。自分が無力で社会も間違っていて、誰かなんとかしてくれないか、私に神がかった力が降りてきてこの世界を救えないのか、という気分になった。
介護の仕事でも、自ら奉仕するような態度を含んでおり、他者に頼ることも下手で、自分が率先して何とかしようと思っていたし、また自分の思いを伝えると相手が傷つくかも知れないと考えていた。
相手を手助けがいる人だと認定して自分は頼りにされていると思っていた。
なので、そういう現実を体験していた。
現実は重かった。
「頑張る」「できる」と言っていた。
目の前の相手のみならず、この街にも、この国やこの世界にも、私が最大限できる善いことは、私が安心していることだ。安心して世界を美しいと感じていることだ。
しょっちゅう自分が出来ることを勘違いしてしまいそうになるけれど、安心して無邪気に生きることをしたい思う。
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