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オウムの教義

※死刑執行時に書かれたものです

先日、松本智津夫死刑囚の刑が執行された。
オウム真理教、仏教を母体とした日本の新興宗教である。教団は1985年ごろから1995年までのバブル期に勢力を拡大し、教団を増幅させていった。
 今となっては考えられないのだが、雑誌や新聞、TVにも普通にオウムの名はあった。僕が小学生ぐらいのときには全盛期でおもしろおっさんとしてバラエティ番組にも出ていた。
 教義は聞きかじりで間違っているかもしれない。僕なりの理解のため気をつけて疑って読んでほしい。

 仏教の発生は釈迦を祖として始まった。パキスタンのあたりで一国の王子。釈迦が家を出るところから始まっているとされる。その後儒教と混ざり、チベットで独自に発展し、海を渡り空海などによって派生し、日本の神仏が合体した。つまり所変われば、仏教と一様に言っても変わる。
 本来ならばインド仏教、チベット仏教、中国仏教、日本仏教と分離して考えなければならない。キリスト教のプロテスタント、カトリックと同じように。

 オウムが目指したのは仏教の原理主義。特にこのこと自体は悪くないことだ。原理原点を研究し究明する。つまりは原理=真理を追求するということである。それを反復可能な科学に落とし込み、言語化し現代の教えとする。
という理解。
 そもそもの仏教の問題点というのがある。空観と仮観。
空(くう)はなんとなく皆さん感覚的理解があるかと思う。空(くう)と無を結構、同一視しているが本来は別物でなんと説明したら良いか…
愛や苦悩、痛み、時間、に実体はない。けど痛みも苦悩も感じるのでこれはあるといえるかもしれない。すべてはバーチャルなものだから、痛みも苦悩も気にしなくていいよといい方向に使える。悪い方に使うのなら全ては空だから…結局なにやっても幻。愛も幻でだからいらないし、お金もいらない、だまって修行しましょうねー。結果、みんな何もしないで死ぬ。もっと極端だと人を殺しても関係ない、幻だもの。
 仮観については現世利益。しかし、すべてが空であっても人間には執着はある。
ちょっと僕の空観、仮観とは違うけどわかりやすい例え
http://show-say.hatenablog.com/entry/2017/02/28/104820 より

ただのデータ、ゲームに必死になって馬鹿じゃないのw」と考え至ったのが空観
例えデータでも、レアアイテムはあるだけ欲しい!」と執着してしまうのが仮観

この説明だと空観が仮観の上位互換となってしまうのでちょっと考えもの。
僕は並列価値として空観と仮観があるという方向である。

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