競争と敗者

 昔からつくづく自分には競争心がないなと思う。スポーツに興味が持てなかったのも、なぜそんなに勝たなければいけないのか分からなかったからだ。勝つことは同時に敗者を生み出す。なぜここでは勝者を目指すことしか許されていないのか。「勝つことだけを考えろ」と誰かは言った。しかしそこでは敗者の存在、立場、気持は隠蔽される。競争とは「負けたものの気持ちを考える」ことをそもそも考慮に入れることができない仕組みになっている。だがこれはスポーツという限られたゲームだというかもしれない。では現実では?

 勝者とは何だろうか。それは負けたものの上に立つ特権的な存在である。スポーツではその都度何かしらの要因で敗者と勝者が入れ替わることがあるかもしれない。しかしこの勝敗のゲームのルールは現実に密輸入されている。誰にも参加の許可を取らず、勝手に始められたこのゲームで勝手に勝ちに行く人たちがいる。彼らはいつも強気で、誰かを出し抜き、時には徒党を組み、勝手に敗者を作る。現実にはゲームの切り替わりやエンドがない。

 競争というゲームはいたるところにある。そこは知らず知らずのうちに敗者が生み出されていく暴力的な場所だ。そして強者は彼らの共通言語を持っている。強者の話す言葉、理論はそれは「とにかく勝つ」という目的に向けられている。ルールとは本来広がりのあるはずのものを収束し規則を作り、さらにそこに強者が自分たちの都合のいいようにルールを書き換え増やしていく。そもそも敗者は勝手に決められたルールの中で永続的に敗れ続ける。

 強者のイメージはマッチョで貪欲な男性性と重なる。あたかも競争に参加し勝つこと、それを目指すこと自体が男性的であるかのようだ。では競争に参加しない、興味がない男性はどのように存在できるのか。確かに競争のルールは蔓延しているのかもしれない。しかしその中で積極的に関心を示さない、そういう自由も残されているはずだ。

 競争に興味がないからどうしても金儲けやビジネスにもあまり興味を持てない。「これはビジネスチャンスだ」とか「次はこういうものが来る」というようなことを普段から考えることがないので、社会貢献していたり面白そうなことをやっているひともいるだろうしそういう話を聞いたり見たりすることもあるが、半分興味を示しながらどこかで冷めてしまう。

 どんなに社会的な意義があったとしても、やはり金儲けやビジネスは強者の理論だと感じてしまう。そこに漂うのは自分の能力を発揮し他人より抜きん出ようという野心のようなものだ。このイメージはそのまま強い男性、またはとにかく突き進む強い人間のイメージである。

 学生生活におけるスポーツの理論、そこでのスクールカーストにおける勝者の理論、社会に出てからの資本主義における金儲けの理論、それらが地続きに同じ理論で通底していることの煩わしさ。まるでこの世のすべてが競争であり、そこで勝つことが常に既に求められているかのようなルール。それ自体に乗れなかった自分。

 彼らはなぜ勝ちにこだわれるのか。なぜ勝つことの裏にある負けることについて無関心でいられるのか。敗者は弱いのではない。勝ったものが強いのでもない。それは競争が生んだ幻想だ。ならば負けることについて考えていくこと、その負け自体を考えていくことが必要ではないか。

 敗者とは何か。それは競争で敗れたものではなく、勝者の画一的なイメージから逸脱するもの、こぼれ落ちるもの、それらすべてを敗者と呼ぶべきではないか。ここでは敗者とは競争のルールに乗れなかったもの(乗らなかったもの)、ノリについていけなかったもの、ノリが悪かったものたちである。それはむしろ敗者というよりも異端者、逸脱者なのかもしれない。勝者は競争のルールという同じリズムを強く激しく同調を誘うように刻み続けている。それは一つのリズムが等しく刻まれ、お互いが出す音が相手を高め威嚇している。一方敗者は同じようにこのリズムに乗ることができない。彼らはそれぞれが別々のユニークで複雑なリズムを生み出している。それは一定ではなくそのたびごとにテンポやリズムを変え、一つとして同じリズムはない。強者のビートの裏を打つ、誰もノルことを拒むような、孤独で美しいリズムだ。

 もちろん、社会という競争の原理から逃れられる安全な場所は存在しない。いくらルールに(リズムに)ノレなかったとしても、ここでは皆がある程度同じルールを共有しなくてはいけない。しかしそれは「ある程度」同じであればよい。強者が勝利に向かって刻むリズムとそこから零れ落ちるものたちが刻む複雑なリズム、それは完全に重なり合うわけではないが、かといって全く重なり合わないわけでもない。リズムは部分的に重なり合う、がしかし敗者たちのリズムは強者たちのリズムの裏で様々に鳴り響き変奏される。そこには決して強者には乗ることができない、むしろ弱者同士もお互いに乗ることができないような独特の弱者のリズムが刻まれている。

 ノレなかったものたち、私たちはバラバラなのかもしれない。しかし、それこそがノレないものたちを一つにまとめ上げないような、強者の連帯や競争から抜け出すような、敗者の存在そのものである。競争はどこまでも広がるが、敗れることを恐れることはない。なぜならば敗れて見えるその裏で、様々な形で変化を重ねながら、全面的にノルことではなく、片足だけノッたふりをしてもう片足で独特のステップを踏んでいるだけだからだ。


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