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「花束みたいな恋をした」評

 物語に感情移入できるかできないかということについて、最近話したことがある。ある人は「じぶんは物語を第三者目線で客観的に見ている」と答え、私は少し違和感を覚えた。物語を客観的に見ることはできるのだろうかと。(「登場人物Aの気持ちを答えなさい」という感情移入的読解の反復を叩き込まれた私たちはそこから自由でいられるのか)そのことについて語ることはここでの目的ではない。そのようなとき、何気なく鑑賞した映画『花束みたいな恋をした』は私を客観性とは対極の主観性の極みに導いた。この映画のすべてが自分自身の実存にかかわる、存在論的な問いを提示していた。これはあまりにも私の物語だった。
 とはいえ、ここで私がこの映画で感じる強烈な共感性を長々と語ることは控えたい。しかしながら主観的であるからこそ発見できるある種の答えに逆説的な方法で迫ってみたいという思いはある。ここからはあくまでも普遍的な読みではなく、あくまでも私自身、また私に近い価値観を持つものから見た読解であることを強調しておく。

 本作の主人公、山音麦(以下:麦)と八谷絹(以下:絹)、当時大学生だった二人は終電を逃したことでたまたま出会い、適当な店で時間をつぶすことにする。そこで二人は偶然にも知る人ぞ知る人物「押井守」を目撃し、お互いが共通の趣味を持つもの同士であることを知る。意気投合した二人はお互いの趣味趣向を隅々まで確認しあい、運命的な出会いを認識する。その後二人は恋に落ち、同棲を始めるがしだいに時がたち学生期間が終わるころには金銭的な事情もあって今までの生活を続けることの難しさに直面する。これまでの絹との生活を続けるために麦は就職を決意する。就職先は多忙で徐々に絹との生活や趣味に充てる時間が減り、2人はすれ違うようになる。気が付いた時には麦は仕事に没頭のあまり自暴自棄になり、以前のような二人の生活は完全に失われていた。二人は別れを決意し、それぞれの道を歩んでいくこととなる。

 私を含めある一定の視聴者であれば、物語の前半部分でこの二人が感じたであろう出会いの感動と多幸感、そして運命性に共感できたことだろう。この映画で言及される音楽、映画、小説、風景など様々な文化に関心を持つものにとって、それら文化を形成する特別な世界は、孤独な自己を癒し、多くの幸福を与えてくれる。本作で言及されるそれら文化は一般的にサブカルと呼ばれ、メインストリームカルチャーと差別化することにより、これらサブカルを愛する者たち(以下端的にサブカルと呼ぶ)は広く一般的な文化志向から距離を取り、独自のアイデンティティを確立している。つまり「一般大衆とは違う価値観や文化に理解がある私」という態度である。これはいわゆる「意識高い系」とも違う。一般的な価値観に対してより繊細で高い意識を持つことが「意識高い系」であるとすれば、サブカルの目指すものとは相いれない。逆にこうした一般的な価値観から相対的に導かるものがサブカルであり、またそこには必然的に多数の固有名が付きまとう。これら固有名がサブカル同士の共通言語であり、かつメインとサブを見分ける暗号のようなものである。本作のきっかけとなる暗号は「押井守」だった。※押井守が誰かはここでは語らない。

 それ以外にも本作には実に多くのサブカル的固有名が登場する。「今村夏子」「穂村弘」「滝口悠生」「きのこ帝国」「羊文学」「ゴールデンカムイ」「宝石の国」その他にもたくさんの場所や小ネタの数々が映画の背景やちょっとした場面において無数に登場する。理解のある人は一目でサブカルの固有名としての共通性を見出すことだろう。こうしたサブカル的要素一つ一つがサブカル視聴者に物語への共感性と没入を促進していく。

 サブカルはまず第一に他者一般と自分を差別化し自己を確立する。知る人ぞ知る作品やメインからは理解されない文化、それを取り巻く固有名が作る宇宙と向き合うことで自己が肯定され、私というアイデンティティが生まれる。しかし同時に「他人からは理解されない価値」を他者と共有したいという欲望を持つ。Jポップのカラオケで盛り上がり、文化への浅い知識を披露し、利害関係だけで群れをなす、そんな人々にうんざりするサブカルは孤独である。しかし固有名でつながることができるサブカルは、ある意味で最も効果的な共通言語を持っている。孤独な個々のサブカルが固有名の宇宙を通して強固につながることができる。

 仲良くなる(なれる)ことは、まず一つに「価値観が合う」そして「話が合う」という一般的な条件がある。サブカルにとって「話が合う」とは、うんざりするような一般的な会話をうまくやり過ごし、日常の中で誰かが発する固有名を聞き取ること、そこから始まる固有名の確認から始まる。そしてサブカルにとって「あなたが好きなものが私も好き」という言葉は「あなたが好き」よりも特別な意味となる。ここにアイロニカルな転倒が起きる。本来「あなたが好き」という自己についての個別性=特別性に対して抱く感情が、サブカルにとっては「好きなもの」が自分自身のアイデンティティを形成しているため、好きな物を認められることがそのまま自身の人格を肯定してしていることに感じる。

 これははたしてサブカルという特殊な存在に限ったことではない。例えば一般的な異性愛を想定したときに、お互いの共通の話題や趣味がきっかけで仲が深まることは何ら珍しいことではない。異性愛にかかわらず、仲の良い友人についても共通の趣味などの結びつきが多いはずだ。ここで一つの問題が浮かぶ。パートナーや友人がこれまでの趣味を否定し、全く違う価値観を持つことになったら、私たちは彼らと今までと同じように接することができるだろうか。そして愛することができるだろうか。本作の麦と絹、彼らは確かにお互いに惹かれあい、愛し合っていた。しかしかし環境が変わり、話が合わなくなり、趣味が合わなくなり、時間が合わなくなり、最後には別れを決意した。

 私たちは相手のことが好きだと感じる場合、相手の存在そのもの、その人格に好意を持っていると感じる。しかしその人格とはいったい何だろうか。たとえ趣味が変わっても、価値観が変わっても、麦は麦だったし絹は絹だったはずだ。これはよく言われる「恋」だったから失敗した、「愛」だったら乗り越えられたとそのような観念的なことで解決した気になることは避けたい。私たちはこのカップルに何かが決定的に損なわれてしまったことを感じる。絹にとっての麦は様々なサブカルチャーの固有名に価値を見出し、その世界を共有できる時間であり、心を通わすことができる存在だった。それでは麦という固有の存在とはいったい何なのか。これは暗号の共有から生まれる親密さから逆説的にそこからいとも簡単に転倒してしまうかもしれない危うさを描き出している。

 本作で描かれるのはサブカルカップルという事例を通した、個人の人格というもののフィクション性とその基盤の脆弱さである。彼らは「この映画が好き」「あの作家が好き」「あのお店が好き」という文化への様々な興味関心の事柄の束として個人の人格をとらえている。しかしその束のうち一つ一つがばらばらになったときに、その人の存在そのもの、個性というものはどこにあるのかうまく捉えられない。麦にとっても絹にとっても自分も相手も結局は束として組み立てられた人物像に過ぎない。そして、あなたが好きなものと私が好きなものを含めた複合的な関係性として相手をとらえ、そのようなイメージでしか相手を愛せない。彼らはいったい何に恋をしていたのだろうか。そもそも人物自体の本質や人格は存在せず、ただただその人を形作っている事柄の束でしかその人をとらえられない、そしてその認識の上に出来上がった像に恋をすることしかできない悲しくも切ない事実である。

 あくまでもこれは一つの恋愛の末路でしかないのかもしれない。逆に世界には今までありとあらゆる「どんなに変わってしまっても、相手を愛し続ける」ということをテーマにした物語が無数に語られてきたし、それはそれでとても美しい。しかし現代におけるサブカルにとっての現実はより困難だ。
 批評家の東浩紀はオタクたちの行動原理を「データベース消費」といった。そこでは人と人とのコミュニケーションは「作品」などの対象を介して行われ、それこそが最も効率の良い「話が合う」コミュニケーションとなった。そしてそれはポストモダンにおける、ある種の必然的な現象であると言う。この映画はそんなポストモダンにおけるオタクやサブカル、いやもっと広義のポストモダン的主体である我々が陥ってしまうかもしれない恋愛の困難さを表している。

 最後に本作のタイトルについて考えてみよう。花束とは何か。それは一つ一つの美しい花が寄せ集まってできた束、つまり無数の愛すべきサブカルチャーの分子が、無数の何気ない日常の断片が、一つの束となって輝いている状態である。しかしそれらをつなぎとめているものは、非常にあいまいなものだ。一度それらがばらばらになってしまえば、それらを形作っていた中心には何もなかったことを知る。花束がその形を保てなくなった時、その恋が終わる。


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