千と千尋と私

私はジブリを観て育った子どもなんですが、初めて映画館で観たジブリ作品、それが「千と千尋の神隠し」なわけです。その時の記憶というのは"思い出"となって、大人の私の心の中にも鮮明に残っているから不思議だな〜と思う。

ーあれは小学生低学年の頃。夏休みに久々に訪れた母方の実家にて、まだ学生だった従姉妹のお姉ちゃんに連れられて初めて2人だけのお出掛けをした日のこと。

自宅の近くにあった映画館といえば当時出来たばかりで、近代的テーマパークのような系列の雰囲気に一歩踏み入れた瞬間に包まれるキャラメルポップコーンの香り。ディズニーランドがワクワクする場所と刻み込まれた地方の子どもにとって "映画館" という空間は、非日常であり ワクワク そのものであった。


小学2年生の夏休み、久々に訪れる遠方の祖父母宅。それこそワクワクの賜物でもありながら、大人たちの話に静かに聞き耳を立てるような子どもだった私にとっては居心地というのを探る時間でもあったわけで。そんな日々の中で両親とも妹とも離れて従姉妹のお姉ちゃんと "2人だけで出掛ける" ということ。初めての経験に少し背伸びした感覚でありながら言わないだけでかなりの心細さがあったことも、記憶にしっかり刻まれてる。

近代的な大きなスクリーンで予告映像が次々流れているような "いつもの映画館" とは違って、静かで肌寒いどこか古臭い香りがする気のするそんな映画館。そんな場所で子どもの私が従姉妹のお姉ちゃんと2人だけで観た「千と千尋の神隠し」はあまりにも強烈でドキドキし過ぎたけど、正真正銘の小並感で「おもしろかった」という感想を抱けていたくらいには自信に繋がった経験でもあった。

ガラスケースの中からその日の思い出として、お姉ちゃんに買ってもらった作品ビジュアルの下敷き。夏休み明けの学校生活において、特別な日を思い出す特別な品になったことは言うまでも無いし、床に落とした際に細かい傷が付きやすい材質であることに、いちいち心を痛めていた子ども時代の繊細さについても一緒に思い出したりするのは余談かな。



大人になっても「千と千尋の神隠し」は大好きなジブリ作品で、それこそ何度も観ているし、定期的に行きたくなるジブリ美術館だけじゃなく、いろんな企画展や博覧会も大好きで足を運んできたんですが。
湯屋のモデルになったともされている場所も訪れて、愛媛の道後温泉にはそれこそ八百万の神さまたちが集まってきそうな威厳を感じたし、モルタル製とかよく分からないけど九份の建物たちには昔ながらであるからこその冷たさとかどこか浮き足立つ異国感みたいなのをビンビンに感じたりしたな。

まぁ、何が言いたいって、そんな日々を重ねた先で、この度また「千と千尋の神隠し」を映画館で観ることができたのよ!!!!!
家で観るのと違って、生活音は耳に入らないし片手間に携帯もいじれないし。大人が五感をすべてトンネルの向こうに研ぎ澄ませて観たジブリ映画、知っていたけど本当に良かったんですわ…………

まずモデル地の空気感も手繰り寄せながら触れる湯屋、私は湯屋のあの圧圧圧倒的な建物がマジで好きで、釜爺の後ろにそびえ立つ引き出しの壁も、吹き抜けのお風呂場も、階ごとに意図を持って造られてる部屋たちも、魔宮に迷い込んだみたいに骨董がひしめく湯婆婆の部屋も、どこか日本的でありながら馴染みがあるわけでもない心許なさがあって、その加減がやっぱり絶妙で最高だった。隅々まで見ようとしてしまった。スクリーンがでかくて最高だった。

そしてありきたりだけど、ジブリ映画に出てくる食べ物というのはなんであんなに魅力的か。以下はジブリ美術館の企画展示「食べるを描く。」で得た視点だけど、お父さんとお母さんが貪るように食べるブルンとした正体不明の食べ物も、それを見るお父さんの目がどんどん理性を失っていくから不安になる。
逆に、食欲を失った千尋がハクから貰ったおにぎりは、気乗りしないまま食べた一口目から、二口三口とどんどん食が進むようになって同時に大粒の涙が溢れ出すわけですよ。『登場する食べ物は決して特別なものではありません。パズーとシータは同じものを一緒に食べることを通して心を通わせあい、千尋はおにぎりを食べながら困難に立ち向かう内なる力をもらいます。』ていう展示の文があまりにも目から鱗で写経してきたんだけど、スクリーンで見るそれはまさに圧巻だったな。
釜爺が二膳の箸で食べる天丼はどうしてあんなに美味しそうに見えるのかな〜と思うし、どう考えたって私もあの海に足を下ろしながらでっかいあんまん頬張りたい。銭婆がもてなしてくれたお茶と茶菓子たちもまた最高で、焼き目とか埋め込まれたゼリーとかこれでもかというくらいクッキーのアイデンティティが詰まってるんですよね。食べたい。

古びておざなりにされていそうな神さまの領域に四駆モードで爆走していく車。「モルタル製だなぁ」とか「バブル時代のテーマパークの跡地」だとか知識だけある大人と、何も分からないけど感じる子ども。腕に縋ることすら煙たがっていたお母さんしっかりと手を握ってくれたハク。ろくに挨拶もできなかった子どもの千尋が 働く ということを通して変わっていく様。淡白な千尋の母と過保護過ぎる湯婆婆からそれぞれの経緯で自立していく千尋と坊。はっきりと述べる千尋と自我の無いカオナシ。親子のやり取りは同じなのに電車の音が聞こえる行きのトンネルと音のしない帰りのトンネル。とか。言い出せばキリがないけどジブリ映画には気付く楽しさがこれでもかというほど散りばめられてて何回観ても楽しいし、答えがないかもしれないことをたくさん考えさせてくれるから楽しかった。

音も色も映像もこれでもかというくらいほど浴びられるジブリ作品、なんでもサブスクで観られるからこそ映画館で再上映してくれることを大声で喜びたいな〜と思った。勝負したところで勝負し尽くしてくれるジブリの心意気を感じるたび、日本人で良かったーーーーーーと思うけど、昨日もまたそれでした。噛み砕く楽しさを知れるから大人になることは楽しいし、噛み砕き方をいろいろ身につけた上で再び足を運ぶ映画館、めちゃくちゃ楽しかった!


人間は生で会うのがやっぱり良いし、映画は映画館で観るのがやっぱり良いですね〜。


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