『絵描き』 感想とメタ思考
これは、男性ブランコのフアンの、ただの感想である。
男性ブランコのコントライブ
"やってみたいことがあるのだけれど"内の
1コント、『絵描き』
小生はこのコントを京都で観た時、
"何も無くてもおまえがある"
ということに痺れた。
"俺は、汚名を着せられているのかぁ"
汚名を〜♪
汚名を〜♪
おっしゃっれっに着っこなす〜♪
確実にこのコントの記憶に残る部分は
絵描き 禅さんの歌うシーンであろう。
キャッチーで、洒落がきいている。
でも小生が心打たれたのは、禅さんの考え方であった。
"困難を歌い飛ばした"
"紙とペンさえあればいい、最悪土と石でもいい"
"何かいいアイデアはないかな?"
"あるんだよ、そこにお前が"
"お前は、お前でしかあり得ない"
"何をしようが所有者の勝手だからな"
"そうゆうのは観たものの解釈次第だから"
全てを客観してみれている。そして、物事を前向きに考えている。
そして敬太への愛が、溢れている。
小生にも、禅さんのような存在が居てほしいとすら思った。
どれだけ自分の殻をやぶったって、その中にはお前がある。
お前は、お前でしかあり得ないといつでも肯定してくれる存在は、貴重で、大切な存在である。
いつでも禅さんのアトリエに足を運べば、きっとどんなことも歌い飛ばしてくれるだろう。
ここからはメタ思考。
メタメタなネタの根を掘ります。
完全なる小生の妄想畑です。
苦手な方はここでお引き取りくださいませ。
何故平井さんは、このネタを思いついたのだろう。
という視点で見て、小生がたどりついたのは
"表現者の生活と活動の中での葛藤"や
"作り手と受け手の伝わり方のズレと苦悩"
を笑いに昇華させたかったのだろうということ。
"もう誰かか絵を描けなくなるのを、みたくない"
"絵が描けたら、それでいい"
が、すごく、平井さんの本心なんじゃないかと小生は思ってしまった。
"もう誰かか表現を辞めちゃうのみたくない"
"自分のお笑いが出来たら別にテレビとかそうゆうんじゃなくていい"
敬太の言葉も、また、平井さんの本心であろう。
"何かで食っていかなきゃ、表現はできないのかも"
"あいつより先に自分が思いついてたことなのに"
そんな葛藤をきっと何年もしてきたのだろうな。
そんな自分のみの視野から受け手の視野まで視界が広がったとき、いろんなズレがあることに気付いたのだろう。
ものづくりや表現は作り手と受け手、
製作者と消費者がいる。
このコントに出てくる二人は禅さんはもちろん製作者であるが、敬太は"まだ"消費者である。
だから二人の大切にしたいことにはズレがある。
禅さんは"盗作した者として汚名を着せられたとてなんてことない"
敬太は"盗作を、見過ごすわけにはいかない"
禅さんは"絵が描けたらそれでいい、土と石でもいい"
敬太は"禅さんが(作家として)描けなくなるのを観たくはない"
禅さんは"イカ"敬太は"トルソー"であるように
自分の視点でしか人は物事を見れない。
でも"そうゆうのは観たものの解釈次第だから"と作り手が言ってくれているのがすごいところなのだ。
作った本人の解釈が一番正しいと、されがちなのに。分かってもらえないと、腹立たしい気持ちにもなるのだろうに。
本当の答えはもしかしたら自分の外側にあるのかもしれない。と作り手が思えるのは、本当に凄いことだと小生は思うのだ。
もはや、答えなんて無数にあって、1つの正解なんてのは検索エンジンにまかせておいて、自分なりの腑に落ちる答えさえ心の中に持っていれば、それでいいのだよと。そこに、お前があるのだよ。と。
そこに敬太が気付けた時、きっと作り手側になっているのじゃないのかな。
なってくれているといいなあ。ケイタ・マルヤマに。
これは、男性ブランコのフアンの、ただの感想である。
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