誰が9000回と言ったのか
3万5000回だったんです。
Ammoの「光、さえも」という2年前にやった公演がありまして。マルセル・デュシャンの「泉」の話なんです。まあとにかく芸術家達が「12人の怒れる男」よろしく、「美とは何か」について議論しまくる超面白い話で、津田はデュシャンの役をやりました。Ammoの転機になった特別な作品。
その作品の中で、ある女性の芸術評論家が、カントの話をする下りがあるんです。ほんと、5行くらい。主宰の南が、稽古のときに「このセリフ書くために、48時間かけて資料読んだ」と宣ったんですね。
誰よりも丹念に取材をし、そして大胆に手放すのが主宰の凄いところなんですが、流石に「いやいやー」「まさかまさかぁ」と思ったりもしてました。あの9月。
時は流れて2019年7月。
僕はある文章を仕上げるために、調べ物をしていました。「人間が1日にする決断の数」について。
どうやら人間は1日に、無意識のものも意識してるものも含めて9000回の決断をするらしい。ネットの情報ではほとんどそう書いてあります。
しかしながら、典拠がない。
誰の研究で、どういう実験で、9000回と判明したのかとかいう記述がどこにもない。権威ある人がそう言ってるとかいう記述も見当たらない。ただ「9000回」だと誰もが言ってる。
残念ながら今書いているその文章は、そういう「裏付け」がないことには「9000回」だとは書けません。
調べました。
調べに調べました。
でも誰が9000回と言ったんだろう?全くもってわからなかった。この時点で4時間。
万事休すかなぁと思ってたとき、そういえばAmmoの主宰はよく外国語の資料とかも読んだりしてるなぁと思い出して、英語のサイトや論文も読んでみることにしました。
程なくわかりました。3万5000回です。
ケンブリッジ大学の、バーバラ・サハキアン教授。「Bad Moves」という本の中で明らかにしていて、向こうのコラムサイトや研究成果では、「人間が1日にする決断の数は3万5000回」が定説みたいです。
ただ、もちろん9000回というのは「日本人の」という観点からはじき出されたものかもしれない。その可能性は探らなければなりません。引き続きリサーチをして結局見つからずに「3万5000回」を採用。
誰が9000回と言ったのか?
もちろん僕のリサーチ不足の可能性もあるのですが、こうまで出典がわからないとなると「誰かが言った」ことが、インフルエンサーを介して一人歩きしている可能性もある気がしています。
でもネット上ではやっぱり「誰が言ったかわからないけどこれ面白い」「好きな人が言ってるからこれは信じられる」という風潮の方は強い気がするんです。自分もまたそういう人間の1人だと思いますし。
しかし、だからこそ、と同時に思う。
こうまで価値観が多様化した現代において「正しさ」が持ってる力は確かにいかほどのものかと思います。
「何が真実で、何が美しくて、何が面白いのか」
「正しい、正しくない」よりも、こういう「好き嫌い」みたいなものの方が、ずっと大切な価値基準になってると思います。
だからこそ。
だからこそ、なんです。
数字や事実という「無機質の正しさ」は慎重に取り扱わないといけないと思うんです。
9000回だって面白いよ。でも「正しい情報」として9000回とサイトやコラムで発信するなら、もっと慎重になろうよって思うんです。確かじゃないなら「確かじゃない」って、一言添える感性があっていいと思うのです。だって、僕らが美意識で生きていけるのはきっと、研究や解析や調査によって、数字という形で正しさを追い求める人達がいるからだと思うから。
地球が太陽の周りを回ってるってことを証明するのに生涯かけた命かけた人達がいたなんてことを今信じられないけれど、確かにいたわけで。
人間や、世界のことを解き明かそうとしてる人達。解き明かしてきた先人。その膨大な成果の上に今、僕たちの価値観がある。時間はかかっても、調べること、確かなことを知ることには、ある種の敬意みたいなものがある。確かな情報を知るということは、顔も合わせたこともない、過去の偉人や今の研究者とも、敬意で繋がることだと思うのです。
そう思ったときに、5行書くのに48時間かけた主宰の気持ちが少しだけわかりました。きっと、間違えたくなかったのでしょう。カントが言ったことを、この芝居で始めて聞く人への責任感みたいなものがあったんだと思うんです。
ここまで書いて9000回がめっちゃ根拠のある数字だったらほんとにごめんなさいなのですが。
でもいつも、敬意で繋がりたい。数字の後ろにある情熱をちゃんと感じたい。そう思って情報と付き合いたい。などと思いました。
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