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祈るとなぜ状況は悪くなるのか?

困難にあった時、クリスチャンなら通常このように考える。

「神に祈ればすべては解決する!」

たしかに、そうである。しかし、そこにはプロセスがある。

まず、私たちは人生において、苦難や困難に直面した時、「恐れ、混乱し、怒る」。それは、この世界と接している目や耳からの情報を脳がプロセスしているからである。

脳は人間の臓器の一つであるが、脳には、「知性、感情、意志、そして記憶」を管理するという機能がある。ゆえに、私たちは、目に見える情報から現状を分析し最適解を得ようとする。

しかし、外界から、自分にとって不愉快で不満となる情報を得たときに、脳はその情報をプロセスして「これはだめだ」という結論に導く。

それは、ある意味正しい。

なぜなら、人間には、物事を自律的に完全に解決するという能力は付与されていないからである。加えて、堕落した天使長である「サタン(ルシファー)」は、その配下の汚れた霊を用いて、否定的な画像や言葉を、霊的に、人間に暗示することができる。

元は天使であり、霊的存在である「悪魔」は、人間に対して、否定的な情報を「増幅」して、恐怖を煽り、そして、知性、感情、意志、記憶が、その恐怖に基づいて演算することを促す。

人間の魂(ソウル)にある、脳の電気信号は、拡声装置でパワーアップした音のように、私たち口から「もうだめだ。自分は悪くない。あいつが悪い。」という言葉を語りだす。それだけではなく、手や足を使って、敵である相手に対して危害を加えようともする。これが、すべての暴力行為の原因である。

人間は、物事、事象を、「肉体で認知」し、たましい(知性・感情・意思・記憶)でプロセスして、行動に移す。しかも、それが、きわめてあたりまえで、自然であり、修正不可能なプロセスであると誤解している。

その誤解とは、人間とは、神から離れ、的外れな生き方しかできない、罪人初めは死んだ状態の霊(スピリット)の存在であるが、「生ける、神の御子、キリスト」であるイエスを信じ告白するなら、その霊は「生まれ変わる」ことを知らない、あるいは、忘れていることである。

主イエスの十字架の犠牲によって、すべての人は、生まれ変わることができるようになった。それが福音である。その生まれ変わりとは、人間の霊において、信じた時に、瞬時に、同時に起きる、神の奇跡である。

人間の救われた霊こそが、クリスチャンの本当の人格であり、また存在である。

しかし、敵である悪魔は、それがあたかも存在しないように、また見えないように、クリスチャンたちが、まるで、生まれ変わった霊が機能していないかのように、妨害工作をすることができる。

生まれ変わった霊の原動力は、聖霊なる神そのものであり、正しく語られた神の言葉である。聖霊と神の言葉によって、主イエスを生ける神の御子キリストと認知し、この世界に生きるなら、人間の霊は限りなく成長し成熟することができる。

しかし、外界世界と常に接する人間は、自分の霊を見るのではなく、肉眼で見て、自分の耳で聞こえる言葉によって行動していることがほとんどである。

ゆえに、クリスチャンであっても、当初は救いの喜びがあっても、実生活での困難に直面すると、その思いがすぐに乱れ、行動、言動もまた乱れてしまうのである。

詩篇42篇にはこのように書かれている。

私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中、「おまえの神はどこにいるのか」と私に言う間。(3節)
わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。(5節)
私は、わが巌の神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ、私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。」(9節)
私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、「おまえの神はどこにいるのか」と私に言っています。(10節)

このような心の状態は、自分の心(魂)において、きわめて日常的に起きていることである。しかし、それは、救われた霊ではなく、肉の目と耳で判断している、魂的な生き方である。

全能者であるところの三位一体なる神は、サタンが私たちに見せようとしているこの現実世界の悲惨さを、はるかに超えて、すべてを「愛と正義と聖さ」で回復できるお方であることを語っている。

ゆえに、主イエスの十字架で、完全に救われた自分の霊を認知し、それを情報源として自分の魂に向かって語り掛けるなら、そこには、絶対的な「平安」が存在する。

私たちの知性や感情や意思が、常に救われた霊を源泉としているなら、そこには、神への賛美があふれ、状況がいくら悪くなっても、主への感謝と賛美が生まれるのである。それこそが、敵である悪魔が最も恐れている人間の状態である。

詩篇103はかく言っている。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。

賛美に満ちたクリスチャンの姿と救われた人々の愛の共同体である教会。これは、サタンが最も恐れ嫌うものである。だから、悪魔は徹底的に教会を憎み、破壊し、現実世界を荒らし、人間にひたすらそれを見させ、人から憎しみの言葉を出させ、そして、究極的には、神からの祝福を「盗み、殺し、滅ぼす」ことを行うのである。しかし、悪魔とて、人間の同意なしにはそれを行うことができない。だから、人間の魂を「乗っ取り」この世界の価値観、事象だけを情報源として判断させ、悪魔の暗示に同意させ、狂わせ、暴力へと導くのである。

悪魔に対して「否」と言えない人は、すべからく、彼の暴力破壊行為の手先となってしまうのだ。

しかし、主イエスという唯一の牧者の声を聞く者には、豊かな永遠のいのちで生きることができる。

ヨハネ10章

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(10節)

クリスチャンが祈り始めると、神の言葉に基づく「期待」が大きくなる。ゆえに、祈るとすぐに問題が解決すると考える。しかし、神の解決は、神の時に起きる。神は人間のリクエストに自動的に応える、便利なATMではない。主権は神のみに存在している。

祈りにおいて神への期待値が大きくなる一方、現状が変化せず、むしろ、悪くなる時には、人はそのギャップで悩むようになる。

「神に祈ったら、状況は逆に悪くなった」

それは、期待値が裏切られたという心情の表現である。だが、神が見せようとしている、神の完全解決は、主イエスの十字架の勝利において、すでに成就しており、神の時に、神の方法で、最高で最善の解決に導かれるということを、祈り始める当初から知り、確信し、平安を保ち、喜び賛美しなさいということなのだ。また、敵である悪魔の挑発にのらず、人に復讐せず、怒らず、暴力をふるうことをせず、すべてを感謝し喜ぶという生き方である。

第一テサロニケ5章15-18

だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

全知全能遍在なる唯一の神は、私たちが苦難や困難を通ることを知っており、私たちと共におられる。神は私たちを見捨てることは決してない。そして、苦難の中で神を知り、そして、救われている霊をはっきりと認知し、困難の中でも、賛美しつつ歩むことを助けてくださる。私たちは、自分の自由意志でそのような生き方「選ぶ」のである。

私たちは、いのちである主イエスを選び、生きるのである。

申命記30章

私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。(19節、20節)

祈ると状況が悪くなるのではなく、神は初めから最後まで、愛の神であり、神の正義だけが実現しているのだ。私たちは、苦難の中で、神に立ち返り、悔い改め、さらに愛の人へと変えられていく。あらゆる方策で人を苦しめる悪魔は、私たちがこのように成長するなら、悪魔の妨害はすべて無意味であり、むしろ、結果として神の愛が増し加えらえることを見て、歯ぎしりするであろう。

このようにして、私たちは苦難の中で成長し、神に栄光を帰し、さらに力強く主イエスの福音をのべ伝えるようになるのだ。

栄光を主に!

(2024/06/07 by David Kazama , Tochigi, Japan)






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