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311から (1)

2011年3月11日、午後2時46分。茨城県古河市。

その時私は車の中にいた。聞いていた文化放送のラジオから「地震です」という声が聞こえ、前のトラックが止まり、車が不自然に大きく揺れた。私は携帯で妻にすぐに電話をした。

「地震だぞ!大丈夫か?」電話はすぐにつながったが、妻の悲鳴だけが聞こえて切れた。

道路脇の家や店から人が飛び出してきた。カーナビのテレビに切り替えると、地震の緊急放送が始まっていた。

幸い信号は止まっていなかった、揺れが止まると、車は動き始めた。私は、古河市の妻のママ友の家に、妻と1歳の娘を迎えに行くところだった。5分ほどで、友人宅に着くと妻も娘も無事だった。そして、テレビでは津波警報が流れていた。しばらくすると、ママ友の娘さんが幼稚園から帰ってきた。私たちは、車で今度は、古河駅の近くの内科医院で診察を受けていた両親を迎えに行った。病院に着くと地震後に診察が再開されていたようだが、私は、両親を急き立てて、診察を受けずに家に戻った。

家に戻ってテレビをつけた瞬間である。

NHKのヘリコプターからの鮮明な映像が、仙台、名取地域を津波が襲っている場面を伝えていた。時間は、午後3時半を過ぎていた。それは、まるでハリウッドの災害ムービーのように、家が次々と津波によって壊され流されていく姿を見せていた。

自宅をチェックすると、棚から落ちたガラス製の時計が落ちて割れていた程度で大きな被害はなかった。しかし、私は津波によって次々と飲み込まれてい行く家の映像を見ながら、これは、私の人生の中での最大の災害であると理解した。

次に私がしたのは、2台ある車のガソリンを満タンにすることと、必要な食料や水を買うことだった。私はこの規模の災害であると、すぐにスーパーやガソリンスタンドが止まることを知っていた。地震直後、ガソリンスタンドは、まだ普通と同じ客の流れであったが、大きなホームセンターでは、水などを買う客が徐々に増えているようだった。わたしは、さらに玄米を60キロを買い、当面の食料を確保しようとしていた。

そして、テレビのニュースと、インターネットでの情報を収集し、その晩を過ごすことになる。夜のニュースでは、自衛隊のヘリの画像で「気仙沼大火災」の様子が流されたのだが、それを不思議と今でも鮮明に覚えている。私には、仙台に知り合いがいたのだが、電話では連絡をつけることはできなかった。

関東では、電車も止まり、人々が都心から家まで歩いて帰宅する様子が報道されていた。幸い自宅にいた私は、電気もガスも水道もあり、特段不便なことはなかった。しかし、時間が進むにつれ、津波の被害の大きさが伝わってくることになった。

こうして、私の311は始まったのである。

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