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21世紀の過ぎ越し

神が人間に対して期待していることは、以下の二つのことに要約されます。

 ① 全力で神(創造主)を愛すること。
 ② 全力で隣人(となりびと)を自分のように愛すること。


神とは、八百万の神でもなく、過去の偉人を祀った神社でもなく、思想や哲学、そして数々の教祖がいる「宗教」、エネルギー体や波動でもありません。神とは、天地を創られた(天という入れ物を創られた)唯一の創造主のことです。その神が創った地(世界)に住む私たち被造物が礼拝すべき対象を神と呼びます。ですから、国籍、人種、性別、文化を問わず、この地上に生きる者すべて(現在約80億人)は、等しくこの「創造主」を全力で愛することができます。

そして第二に、すべての人は「自分を大切」にしています。だれも、進んで自分自身を痛めつけようとはしません。自分を大切することと同じように、隣人を愛することが、第二にすべきことなのです。

あなたの隣人とは、あなた以外のすべての人のことです

たとえば、隣人は、今あなたの目の前にいる人のことです。その人は、電車の隣に座っている人かもしれませんし、会社の同僚や上司かもしれません。そして、家に帰れば家族の一人一人があなたの隣人となります。ですから、その隣人がだれであっても、あなたは笑顔と真心を以って「愛する」必要があるのです。もちろん、その隣人はあなたの敵や意地悪をする人、困らせる人かもしれません。しかし、私たちは相手がどんな人であれ、考え方がまるで違っていても、全力で「愛する」ことを望まれているのです。

もちろん、すべての人を等しく愛することは、私たち人間にはできません。はい、そうです。それはできないのです!ですから、私たちは、神の愛と力を受ける必要があります。あなたの命に神の愛と力が注がれているのなら、私たちには不可能はありません。

では、この教えは誰の教えなのでしょうか?

それは、「生ける、神の御子、キリスト」であるイエスの教えなのです。

イエス・キリストは、神100%、人間100%の存在として、二千年前のイスラエルに現わされました。当時の宗教はユダヤ教でした。そのユダヤ教は「神を愛し、隣人を愛する」という律法を核心のこととして「教えて」いました。(レビ記19章18節)

ですが、律法の厳守や人間の努力、宗教コミュニティの力だけでは、それを実現することができなかったのです。ユダヤ教から見れば、異教の異邦人はとても愛することができる対象ではありませんでした。

そこにイエスは、聖書の神髄である「神と人を愛する」ことを、自らの生き方で示したのでした。それが十字架と復活なのです。イエスは、現在・過去・未来のすべての人のために命を差し出したのです。

今日はちょうど、春の過ぎ越しの祭りの真っただ中です。イエスは2000年前の過ぎ越しの祭りの中で十字架に磔になり、死なれ、三日目に復活されました。それは、私たちの「罪」を背負って、ご自分の死でそれを「帳消し」にしてくださるためでした。

私たちは、すべての隣人を愛することができないという「罪」を感じる時がありますが、イエスを見上げ、イエスの力を纏うならば、不可能は可能になり、敵でさえも愛することができるのです。

「人にはできないが神にはできる。」これが、イエスを信じる力の結果なのです。

21世紀のITと人工知能の時代にあっても、私たちにはイエスが必要なのです!そして、この世界が待ち望むのは、イエスの愛と力がもっと明白に見えるようになることなのです。

すべての解決はイエス・キリストにあります。

21世紀の過ぎ越しの祭り、おめでとうございます!

しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。
「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
そこで、イエスは彼に言われた。
「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
(マタイ22:34~40)

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