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私たちが普通に感じている光とは、太陽の光である。もちろん、部屋の中では蛍光灯やLED照明が発する光もあるが、それらは可視光線であり、本質的には太陽の光と同じである。

このように、普通に考える「光」があるのだが、聖書には、それ以前の光があると記されている。

はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

(創世記1:1~5)

天地創造第一日目に現された光とは、神が「光あれ」と語って生じた光である。それはまさに、神ご自身が光源である光である。つまり、創造物としての光ではなく、それは、神そのものの顕現でもあった。そして、天地創造においては、第三日目なって、二つの光るものが創造されている。これが天蓋に見える太陽と月のことである。

つまり、この天地の創造のとき、神は「ことば」で「光」を現わされた。この光は、いわゆる「光=光子」のことではなく、1秒間に30万キロ進むという普通の光のことではない。

一般的な物理学や天文学で観測している光の速度は有限であると言われているが、神の光は無限の速さをもっている。つまり、何にも束縛されない光である。

ここで、一考が必要となる。

聖書を神の言葉と信じる者は、普通なら生命が進化によって生み出されたという、進化論を信じることはない。つまり、この世界はすべて神の創造によるのであって、勝手気ままに進化した動植物の世界は存在していないということだ。

魚が両生類になったのでもなく、キリンの首は、元から長かった。もちろん、サルが類人猿に進化するなどということはない。また、もっとひねって、他の天体から来た宇宙人のDNA操作により、人間が生まれたということもない。

つまり、天地創造にあたって、神は光を現わしていたのである。この光は根源的なものであり、それを凌駕できる自然現象は存在しないのだ。

このような考察の結果を考えてみよう。

つまり、あなたが創世記一章の「神の光」を理解するなら、人間が近代において体系化した自然科学が物事の道理のすべてであるという考えは却下される。科学は、目に見える自然現象の合理的説明を目指しているのだが、それは限定的で閉じた世界の中の分析にすぎない。それは部分的に合理的に[
見えるような」説明ができているだけで、天地の全体像を見る能力はない。

では、天地創造第一日の光はその後どうなったのか?

それは、新約聖書に答がある。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。

ヨハネによる福音書1:1~4

神が天地創造の第一日目に創造した光は、言(ロゴス)であり、生きている神の言葉となった。この言葉が肉体となったのが、2000年前にイスラエルに生まれたイエス・キリストである。

この世界においては(神の光=神のことば)という等式が成り立っているのだ。ゆえに、私たちが、神の言葉を信じ、握りしめ、自分の心と同一化させるならば、そこには、神の光がもたらす圧倒的な勝利がある。

サタンがエデンの園で、アダムとエバをそそのかした時、彼(サタン)は、神の言葉を疑わせるという戦略を用いた。神の言葉に命があることを彼(サタン)は知っていたのだ。その策略にはまった二人は、善悪の知識の木の実を食べ、罪を背負った命を持つようになってしまい、楽園から放逐されたのだった。

だから、今、すべての人は、原罪から解放されるために、神の御子イエスを信じて、神の言葉を握るという生き方しかない。生ける神の御子であるイエスが生まれたのは、神であるイエスが人となって人間の罪を背負い、その責任を十字架上で果たすことだった。そのことが、バイブルに描かれている贖罪のストーリーであり、エデンの園の事件の発生の前から、神の「光」の無限のスピードによる、最速の解決であった。

神の光は、物理的、歴史的時間軸を超越して、物事に先回りし、すべての解決と解放をもたらすことができる。これは、有限速度を持つ、普通の光には絶対にはできないわざなのだ。

だから、神の光である、神の言葉である、イエス・キリストは、私たちの過去の傷さえ癒すことができるし、あなたが、どんなに不遇で悲惨な環境で育ってきたとしても、その心を刷新し、愛と喜びに満たすことができるのだ。

最新の科学も、医学も、心理学も、宗教も、哲学も巨万の富にもできない、あらゆる解放が、神の光には可能である。

この意味において、神は、全知、全能、偏在である。神の根源的光が及ばない場所は、この天地には存在していないのである。それは、私たちの心の最深部においても同様である。

光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

ヨハネによる福音書1章5節

あなたは、この光を見ているだろうか?

イエスこそが、この光そのものであることを。


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