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クランマーの生涯 はじめに(6)

(5)の続き

 過去の不協和音な声を意識して、私はトマス・クランマーを英雄にも敵役にも仕立て上げようとは思わない。私たちのほとんどがそうであるように、彼もまたその両方である可能性がある(クランマーの成熟した福音主義神学においては、人は聖人にも罪人にもなり得るということに激しく反対したであろうが。つまり、神によって救われるまでは皆、罪人である)。しかし、クランマーの行動は、対照的な仕方でしばしば正当且つ明瞭に評価されている。だが、読者は彼が20年以上にわたって大主教を務め、私自身のアイデンティティを形成してきた英国教会に私が懐疑的な感情を抱いていることを認識しておくべきである。この物語に偏りがあるとするならば、それは頻繁に困惑し、そして他人をも当惑させた男への同情である。そしてまた、その最期の時において、確信に満ちた最後のジェスチャーにいたるまで苦悶する姿に対する感嘆の念がある。私はクランマーについて知っていることを考察した時、英雄伝を物語る人は、敵役の物語を語る人よりも概してその証拠となる要素をほとんど歪めてはいないという結論に達したのである。この私の意見に賛同するかどうかはこれから読者が決めることである。

【続く】

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