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宣戦布告〜楽しく生きるにはエネルギーがいる。〜まちくたの場合

私は、考えることが好きだし、癖になっています。
それはずっと昔からで生まれつきだと思います。
何事も考えるのが一番だと思ってたし、善し悪し以前に自然と考えこむことが、普通でした。
しかし、考える癖がエスカレートすると、内向的になりすぎたり、自分の思考にがんじがらめになって身動きがとれなくなったりで、辛くなります。
中学生のとき、考える癖が私をとてつもなく苦しめてきて、大好きな自分の武器だったはずの行動が、いつしか自分を苦しめていることに気がつきました。
だから、高校生になってからは〝行動すること〟を何よりも大切に過ごしてきました。
〝見るまえに跳べ〟というやつです。(私はごく個人的に大江健三郎より岡林信康のイメージ)
実際行動してみて、わかることがあるし、今まで考えていたことも、行動をおこして初めて役に立つことを知りました。
だから、ダチュラフェスティバルの話を聞いたとき、ほぼ即答で参加することを決めました。
でも、まさに見る前に跳ぶような、大きな構想と規模と、それが現実になろうとする様を見て「私には大きすぎたのかもしれない。」「私は場違いだったかもしれない。」と急に不安になってしまいました。
リスクもいとわない大胆さも、すべてがどうにかなるような才能もないのに。心の調節をするために行動してただけの私は見る前に跳んだら飛び続けなければならないことを忘れていました。
まるで飛び続けられるような顔をして、飛び続けられる人の中に入ったはいいけど、もう限界なんじゃないかと思いました。
これは、ダチュラフェスティバルに関してだけじゃなくて、私が見る前に跳んだすべての行動に同じ不安を感じていました。
それからは、「私にできることがあるのかな」「私がやる必要あるのかな」とか、マイナスなことばかり浮かんで、また、考え込むようになってしまいました。
結局また、ここで逆もどりするなら、やっぱり私は違ったんだ。向こう側に行ける人じゃなかったんだと永遠に負のループ。
でも、私がダチュラフェスティバルをやりたいかとか、できることがあるとか、やる必要性とかじゃない、と考え直しました。
私はダチュラフェスティバルをやらなくてはならないんです。
その理由こそ、〝楽しく生きるため〟
楽しく生きたいなら頑張らなきゃいけないんです。

楽しく生きるためにはエネルギーがいる。
戦いである。
わたしはその戦いを今も続けている。
退屈な連中に自分の笑い声を聞かせてやるための戦いは死ぬまで終わることがないだろう。

村上龍/69 あとがきより

ダチュラフェスティバルは村上龍の69から着想を得ています。
私ももちろん読んだことがあって、でも凄く複雑な感情を抱いている作品です。
なぜなら、読んだ後〝私がなれないすごい人たち〟の話だと思ったから。
「こう上手くは行かないから辛いのに、」「こんなにぼんやりとした衝動を信じられないから悩んでいるのに」嫉妬の念ばかりが巻き起こりました。
でも最近になって(これまた)考え直すようになりました。
69とは、できる人ができない人をバカにしながら成功する話ではなく、〝楽しく生きるにはエネルギーがいる〟ということを伝える話なんだと。
私がただ生きているだけでも、色々考えて、人生にこだわってしまうのは、楽しく生きたいからにほかなりません。
そして、楽しく生きるにはエネルギーが必要で、戦い、頑張り続けなきゃならないんです。
無理をしてるとかじゃなくてもっと自然なこと。
私が生きているかぎり、頑張っていることが常なんだと思いました。
私がダチュラフェスティバルを止めてしまったらそれは私が楽しく生きようとすることの否定になってしまいます。楽しくは生きられないって意味になってしまう。
ダメならダメで元々じゃないか。
私は、69のケンちゃんみたいに真っ直ぐ突き進めやしません。
でも、それならそれで、遠回りして行ったり来たり戻ったり喜んだり苦しんだりを繰り返してでも楽しく生きればいいじゃないか。死ぬまでずっと!
その決意表明と証明は、ダチュラフェスティバルの開催および成功にこそあります!
がんばるぞ!!!!!

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