人生は平日のほうが多い
はじめに
ジョー・力一の1stミニアルバム『カーニバル・イヴ』が2月28日リリースされた。
私を含め多くのファンが待ち望んだ、力一の、力一による音楽が、CDとして世に放たれたのである。
先行公開された『レイテストショーマン』『ジョン・ドゥ・パレード』『コルロフォビア』の3曲を聴いて間違いのないアルバムであることは確信していたが、実際手に取りプレーヤーにディスクを入れてみると期待以上の作品であった。私にとって、人生における宝物にしたいアルバムのうちの一枚とおそらく呼べるくらいには。
このアルバムを聴いて居ても立ってもいられない気持ちになり、今こうしてキーボードに向かっている。拙いながら1曲ずつ、力一自身が作詞した歌詞を辿りながら感想や解釈のようなものをつらつら書き連ねていきたい。
※以下、本人による解説の内容を踏まえた個人的解釈を交えた文章が続くため、ご自身の感想を大切にされたい方はお気をつけください。
レイテストショーマン
力一初のソロオリジナル楽曲であり、アルバムのリードトラック。
重厚なコーラスで幕を開けるこの曲は、力一自身が「ラジオに届く、夢を追う人のお悩みに対するアンサーソング」と語るように、華やかなホーンに彩られたファンクサウンドとは裏腹にまばゆいスポットライトへの憧れとそこへ至るまでの苦悩が綴られている。
冒頭はこの曲の主人公の自信に満ちた、あるいは虚勢を張ったようなフレーズから始まる。
『ジョー・力一のラジオ深夜32時』に寄せられた、進路に悩むお便りに対し力一が「でも"俺って天才だし”と思ってないとやってられないでしょ」と答えていたのが思い出される。
その後は、力一自身の「LINEで仕事の連絡が来るのをずっと待っていた」過去を思い返しているような、やや鬱屈とした描写と Hey レイテストショーマン と力強く語りかけるサビが交互に続き、
と2番Bメロでやや吹っ切れたような、開き直ったような印象になる。
ひとたびステージに立ってしまえば、失敗し、恥を晒そうとショーをやり遂げるしかない。必ずしも万人から賞賛を浴びずとも、誰かの「最高」であればいい。それが力一流のエールなのかもしれない。
天啓を受けてピエロになったという男が清々しくこう言ってみせる。進むべき道は天啓のように降って湧いてくるのではなく、自ら選び取って希望を勝ち取るのだと。
ジョン・ドゥ・パレード
名もなき者たちのパレード。打ち捨てられ、忘れられたあの日の夢を手繰り寄せてそれぞれの目的地へ向かっていく。
初めて聴いたときの印象としては「名無しのパレードということはインターネットのことを歌っているのか?」と思ったが、お互いに素顔や名前も知らない、目的地も異なる人間が一同に会せるのがインターネットという不思議な場所で、そこで出会った力一団長がパレードを先導していると思うとなんと愉快なことか。
このフレーズで私はにじフェス2022の授業での力一の発言を思い出していた。
「立場やTPOに見合った自分像を経験と想像力で構築し、自分が憧れる人を自分自身に降ろすことができるようになれば、いつしか一回り大きな自分になれる」(要約)
バーチャルの世界で様々な人格を作り出しては演じている力一にとって、それらは自らのある側面のひとつであって、それをレイヤーのように重ねて自身を形作っていくことでVtuberジョー・力一としての理想形を目指す感覚なのかもしれない。
大勢の孤独を集めたパレードは力一団長に率いられて今日も続く。それぞれに夢へのヒントや目標を見出しながら。
コルロフォビア
「怖いリキイチ」と称されて先行公開されたこの曲は、なるほど一聴してヴィラン然とした歌い方に尖った印象の歌詞と、MVもやや不気味な雰囲気である。
ピエロのメイクで鏡に映る自身を皮肉り、自嘲しているともとれる。
ここで、どうしても『レイテストショーマン』とのリンクや対比について考えが及ぶ。
『レイテストショーマン』では、舞台に立つことに対する不安はあれど、幕が上がればとにかくやるしかないという開き直りすら感じられたが、『コルロフォビア』の主人公からは一度舞台に立ってしまったからにはいくら不条理やジレンマ、空虚さを感じていてもそこから降りることができない諦念と、それからどうしようもない渇望が読み取れる。
そして、渇望といえばもうひとつ思い出されるのはデビュー5周年記念日に発表されたカバー曲『錠剤』のMVである。
力一の過去の苦労をなぞるようなイメージのMVの最後で、白いスーツから覗く手首は後ろ手に手錠に繋がれていた。振り返り雑談で「フリーのピエロって本来矛盾してるもんですからね」と語られたそれと『コルロフォビア』の世界観がどうにも重なるように思ってしまう。
全体に刺々しい印象ではあるものの、難解な語彙にコーティングされた詞は笑い顔のメイクの下に悲哀を隠すピエロそのものを表しているのかもしれない。
背後にいる誰かに繋がれ飼いならされるピエロメイクの自分と、それでも舞台の上での賞賛への渇望とのジレンマを自嘲しながら、ティーカップはいつ満ちるのか。
明転
歪みのあまりないギターの音と、少し乾いたようなボーカルで紡がれるこの曲はここまでの3曲と打って変わって寂しげな空気感が漂う。曲が進むごとにスライドショーのように場面が変わり、大事ななにかをなくしてしまった喪失感や後悔、自問する様子が等身大で描かれているように感じられる。
寂しがり屋なのに格好つけたい、そんな気持ちの動きが淡々としていながらも生々しく綴られている。
気持ちを置き去りにしたまま時間だけが無情に過ぎていく描写はあまりにも切なく美しい。
ただ、私はこの曲の歌詞を辿っていくなかで半ば願望交じりにこうも思う。失われたものはどうしても美しく見えるものだが、そこに在って息づくものもまた美しいのだと。
「明けない夜はない」なんて使い古されたフレーズだが、やるせない夜を過ごしても日常は変わらず進んでいくし、体裁を取り繕いながらやりすごすうちになんとなくまっすぐ立てるようにはなる。世知辛さを飲み込みながらもそこに咲く花もまた気高く、愛すべきものであると思う。
Stream Key
りきいち、オタクのこと好きなのか…?すみません冗談です。
「今立っているこの場所を選んでよかった」というメッセージがストレートに感じられるような明るい曲調と歌詞に、なんともカタルシスを感じる。
ここまでの曲では過去の自分と向き合うような、内省的で薄暗さも感じる言葉が綴られてきたが、
辛い過去も、先の見えない未来もまとめて肯定するこの言葉がどれだけ救いになることか。
歌詞には随所に日常を掬い上げては笑いに昇華してしまう力一の配信スタイルを思わせるような言葉が散りばめられている。
この曲の最後、すなわちこのアルバムはこんな歌詞で締めくくられる。
恥や葛藤を白日のもとに曝け出すスポットライトに怯えることはない、いっそ迎え撃ってやろうじゃないか。
ひとりで始まったステージは仲間たちとともに鮮やかに続いていく。
おしまいに
この記事のタイトルは、『ラジオ深夜32時』での発言から引用している。
その話題自体はやや下世話な内容であったが、このコメントがどうしても忘れられずにいて、今回「祝祭前夜」を冠するアルバムの感想文のタイトルとして使うことにした。
リリースコメントにもあったが、舞台やショーをモチーフにしていながらも描かれているのはその前日譚で、新たな世界に飛び込む前の日常へのエールが全体のテーマであるように感じられた。
非日常を"非"日常たらしめるのは日常あってこそ。苦悩も葛藤も内包したどうしようもない人間臭さがこのアルバムの語りつくせない魅力のうちのひとつであると私は思う。
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