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大人の教養についての考察

 昨今、テクノロジーの進歩に依って、人々は国境を超えて繋がりやすくなったと思います。遠方の人と繋がられるようになったのは、たしかに便利だと思いますが、一方でその反作用の如く孤独感が増しているのは、私の思い違いでしょうか。
 都会では隣人のことを知らないのは当たり前で、電車に乗れば自らのスマホに集中して、年配の方に席を譲らないばかりか、誰のことも視野に入れようともしない。知らない人に声を掛けて危害に遭いたくない、断られたら恥ずかしい。理由はそれぞれでしょう。しかし、私たちもいずれ歳を取りますし、身体に変調を覚える場合もあります。『お互い様』の気持ちは、どんなときでも忘れたくないものです。
 また、こんなシチュエーションを目にすることも少なく有りません。電車やバスで移動中、親が子供にスマホやタブレットを渡して、ゲームをさせたり動画を観させている。ゲームや動画が悪い訳ではありません。問題はシチュエーションなのです。公共交通機関に乗っているときは、年配の方が乗ってきたら席を譲る教育をするチャンスです。画面に集中していたら、周りに気を配ることはできません。だいたいの場合、その親は子供のことすら無視していますし、自らもスマホに集中しています。風景を一緒に眺めたり、車両の中にどんな人が乗っているのか、観察し感想を述べ合ういい学びの場だと思います。
 子供はまったく悪くありません。環境を整えるのは親の役割だからです。私は外でこれなんだから、家の中でも子供を放ったらかしにしてるんじゃないかと、他人事ながら心配になります。子供のうちにしておくべき親子間の会話というものは間違いなくあります。それは、主に道徳やモラルの領域のことです。道徳やモラルに正解はありません。だからこそ、考えるチカラが養われるのです。
 テクノロジーの進歩に逆行する必要はまったくありません。使うシチュエーションの問題なのです。大人自身に教養(勉強のできる、できないではない)がなければ、子供の可能性を狭めてしまうでしょう。
 いい大学に入り、いい企業に入る、出世して、結婚して、子供を授かる、典型的な幸福のテンプレートかもしれません。
 その間、競争に勝ち続けたとしましょう。逆に言えば、それだけ敗者を作り続けているのです。それを理解し想像できているかどうか、自分中心に世界は回っていません。世界の一員なのです。
 テクノロジーを利用して下さい。利用されないで下さい。時代はどんどん流れて行きますから、教養は一生を懸けて培うものです。学ぶことを止めたら、そこで試合終了です。
最後に『お互い様』の気持ち、私も忘れないようにします。

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