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吐露

3月は感情がよく動いた。というより、随分と心が摩耗した。楽しいことも嬉しいことも沢山あったけれど、落ち込むことが多すぎた。とても全部は書けないが、身内が再び脳梗塞で入院して今も意識不明の状態であったり。認知症になってしまった大好きな祖父から上京前日に「お前は佐賀を捨てる気か」と怒鳴られたり。他にも悩みの種は尽きない。考えただけで頭の右後ろがモヤモヤする。

こんな時、祖母を思い出す。僕が生まれる1年前に亡くなった父方の祖母は、とても愛されていた人だという。癌との闘病生活を経て、50代半ばという若さでこの世を去ってしまったが、病院にいる間も「あんたたち、なんしよんね!暗か顔ばっかりしとっちゃいかん!」と、他の患者を連れてラジオ体操をするような、パワフルな人だった。直接会ったことはないが、小さい頃から祖母は僕の後ろでいつも見守ってくれるような、そんな存在だ。最近の僕を見たら、「なおちゃん、なんばしょげとっとね!元気ばださんね!」とばあちゃんに怒られてしまうかもしれない。

今日は色んな気持ちを落ち着けるために、先日、書店をぶらついているときに偶然見つけたエーリッヒ・フロムの「愛するということ」という本を持って近くの公園に行ってきた。久しぶりの快晴と春風が心地よく、好きな匂いがした。あと数日で満開になりそうな桜がとても綺麗だった。ビニールシートを敷いて寝転がっていると小さい子どもが寄ってきて笑顔を見せてくれた。とっても可愛かった。一年前の今頃、桜が咲いていることに対して何も感じない自分がいることに気づいて、驚いていたことを思い出すと、ある意味人間らしい(?)感情を取り戻しつつあるのかもしれない。

さて、今回手に取ったこの本だが、タイトル通り愛について書いてある本である。前に友人から「愛と恋の違いって何だろう?」と言われたからなのか、自分が単純にこれまで答えをだせなかったからなのか(?)、自然と手を伸ばしていた。この本には恋愛については勿論、親子の愛や友愛、母性愛、自己愛について書いてある。

序章を通して、人は愛されることを強く望むという。世間一般的に誰もが欲しがるもの(富・名声・力?あと容姿とか)を"パッケージ"にすることで自分を"魅力的"なものにしようとする。そうして、自分が愛されることを願い、また、同時にお目当てのお買い得な商品と化した愛すべき相手を探そうとする。これまでパッケージをどう効率的に身につけるかばかり考えていたような気がする。序盤にして痛いところをつかれたなぁと思った。

だが、本質的に愛とは、上記のようなパッケージの売り出しではなく、自分の中に息づいているすべてのものを(興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど)与えることだという。感覚としてはなんとなく理解できそうな気もするけれど、実践するのは難しそうだなと思った。祖母はこれができて、多くの人に愛を与えていたから、結果として心から愛される人になれたんだろうな。インターンの上司も僕と年齢がさほど変わらないにも関わらずこれを当たり前に実践していた。とても魅力的な人だった。僕はまだまだばぁちゃんみたいになるのには時間がかかりそうかな。

今回のnoteは完全に感情の吐露。あっちにいったりこっちにいったりしてまとまりがつかない。いつかも書いたけど、ここまで読んでくれる人はどっかで深く繋がってるのかもしれないですね。こんな日は美味しいものを食べて、さっさと寝るのが一番。気持ちよかったから明日も桜を観に行こうかな。

Nao

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