方向音痴ではないと信じている

自分は方向音痴ではない。少なくとも困っていないという意味で、そう認識している。

Googleマップがあれば初めての目的地に行ける、商業施設のフロアマップからテナントを探せる、何度か行ったことのある場所であればマップが不要になる、間隔が空いても「昔通った道だ」と認識して進めることが多い。

一方で、特定の大型施設、伏せる必要もないので述べると、あるイオンにおいてどうも迷いやすい。他のイオンでは不自由しない。
不案内なエリアでは地下からの出口を出た瞬間、どちらを向いているのかはわからないが、マップがあれば照らし合わせはできる。
方角はあまり意識しない。
住宅街の複雑な小道は覚えにくい。
年に1.2度行く駅の北口と南口のどちらに出るべきかは覚えにくい。

マップがあれば解決できるが、マップなしでどれだけ覚えて行動できるかという点では他人より劣るのかもしれないと考える。

果たしてこれは方向音痴ではないと言ってよいのだろうか。一般に、脳の働きや精神の分野では本人が困っているかどうかという尺度があるようなので、もし方向音痴ガイドラインがあっても、診断はされないように思う。

佐々木宏之, 大橋智樹(2013) 方向音痴は不可能図形の認知が苦手か?―大域・局所処理の個人差に注目して

研究内容は、方向音痴の人は不可能図形の認識も苦手な可能性があり、それは局所情報を大域的な位置関係に結び付けられないから、といったところである。

気になった点は2つ。

1つは脳の部位と機能について。
「大脳の後頭葉皮質で視覚情報の初期処理が施された後、側頭葉皮質に向かういわゆる腹側経路で物体情報が処理され、後頭葉から頭頂葉に向かう背側経路で空間情報が処理される。」とのこと。
脳での情報処理の知識がなかったので、まずここに控えておこう。
顔の認識は「物体情報」であり、方向感覚や認知地図は「空間情報」であると説明が続く。
もし、どの建物が目当ての建物か分からない場合は物体情報の問題だと思われるが、迷子になるような方向音痴は空間情報の問題が主なのだろう。

もう1つは、自称方向音痴は自称相貌失認より多く、空間認知の個人差が際立つと書かれていること。
確かに自称者を見かける割合で言うと、方向音痴の方が多い。そして、方向音痴を自称しない私は、何故方向音痴は堂々と言えて周囲の理解(協力)を得られ、相貌失認はカミングアウトしにくく、しても否定されやすいのか、と思っているのである。
環境が変われば、自称相貌失認者も増えるのかもしれない。

最後に「自称」について、日々曖昧に用いてはいるので、自分なりの意味合いを整理したい。

•公言している状態
自分はそれが苦手だと(誰かに/どこかで)宣言している状態。論文では単にこの意味で書いていると思われるし、字義的にも一般的だと思う。

※このフェーズの前に、誰に言わなくても自覚している状態は存在するだろう。特に相貌失認や方向音痴では、それで困っていると自認している状態。
客観的評価や相対的能力評価がどうであれ、「苦手」で「不自由している」と認識している状態。
そこからのミングアウトの有無(オープン/クローズド)など、場面や相手によって情報の公開度合いは違う。
自分の場合は、少なくともネット上で、自分はこうだと認識していると発信する、という程度の意味で「自称」して生きているわけだ。

•診断を受けていないなど、他者から証明されていない状態。
自称◯◯障害、自称◯◯病などの表現を目にする時、本人が「未診断」であると断り書きする意図の場合と、疑いの目を向ける他者による表現の場合がある。
少なくとも、私についての自称は未診断の意味である。

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