暗闇にいると話していたくなる

今のことだけれど、ふと自分の手を見たらしろくてくろくてあおくて吃驚した。
不意にわたしはまた、ふ————っ……と沈んでいった。
ついさっきまで、ぱちゃぱちゃと水面を飛び跳ねて遊んでいた軽いからだのこどもが、ぱたりとゆらりと倒れて深くて長い水中を落ちていくみたいに。
ついさっきまで、ぱちゃぱちゃと水面を飛び跳ねて遊んでいた軽いからだのこどもが、ぱたりとゆらりと倒れて深くて長い水中を落ちていくみたいに。ついさっきまで、ぱちゃぱちゃと水面を飛び跳ねて遊んでいた軽いからだのこどもが、ぱたりとゆらりと倒れて深くて長い水中を落ちていくみたいに。

昔、わたしの話をよく聞いてくれたひとに話したことがある話。
わたしの心の中には幼子がいて、いつも泣いている。時々大暴れする。泣き喚いて落ち込んで死んだように眠る。
いつの間にか居た幼子は、いつの間に在たのだろう。


中学生の時から、友達と遊ぶのが苦手だった。友達なのに。
学校ではとても仲の良い彼ら彼女らと、休日に会っていちにちか半日、一緒に過ごすのが苦手だった。

まだ学校にも上がらない小さい頃、わたしは泣き虫だった。
母が怒りんぼうで、泣くと怒られた。泣きたかったのは母だったと思う。でも、大人って簡単には泣けない。いや、母はよく泣いた。
文字にしてしまうと永遠になってしまうように思われて、書きたくないから書かないけれど、わたしが泣くことを恥とする言葉をよく言われた。
その言葉を、魔法の言葉としよう。魔法はいつか解けるから。母は、解けない魔法をかけるような悪い魔女ではないから。
魔法の言葉は、逆に、わたしに笑うことも躊躇わせた。
笑っている時にいつも思う。こんなにたくさん笑ってしまって、泣いたときにまた魔法をかけられないだろうか。
こんなに大きくはしゃいでしまって、泣いたときにまた魔法をかけられないだろうか。
魔法はまだ続いていて、今一緒に暮らしているパートナーと喧嘩している時なんかには、楽しかった時のはしゃぎようを引き合いに出されたらどうしよう、なんて思う。
母の魔法はまだ解けない。でもきっといつか解ける。

友達と遊ぶのが苦手なのは、魔法の逆効果だった。
ずっと笑っていなくちゃいけないと思っていた。
思わずとも、根付いていた。
笑っているわたしが普通で、それ以外の表情をしたら離れてしまうのではないかと怖かった。
自分の暗い面を出したくなかった。「意外」という言葉が怖かった。
意外って、負の意味しか捉えられなかった。

彼ら彼女らとは、今ではごくごくたまに連絡を取り合うほどに離れてしまったが、遠く遠くに離れているのに何故か話しだせばすぐにまた近くなる。
彼ら彼女らに隠していることが無くなったし、これからいくら暗い面を出しても彼ら彼女らは離れないだろうと思えるし、離れてしまったらそれまでだと思えるようになった。
信頼しているとも言えるし、強くなったとも言えるし、諦めているとも言える。
諦めは悪いことばかりではない。人間関係、個人と個人が同一でない以上、どこかしら何かしらで諦めが必要だと思う、今のところ。
これは実はとても不本意で哀しい。

プラトンが謳った人間球体説のように、かのひととわたしがくっついて、完全にひとつになればよいのに。
そのような世界だったら限りなく幸福なのに。

確かに合わない相手もいるだろう。
合いそうで合わない、でも心地よい相手もいるだろう。
でも、たったひとりくらいは完全に一緒でありたい。
かのひととわたしが完全に一緒であれば、わたしのいつまでも消えない孤独が消えるかもしれない。

中学生の時、友達のひとりに言ったことがある。今でも変わらない意見。
人は結局、孤独なのだ。
どんなに友達がいようと、どんなにひとに愛されようと、どんなに明るくても、どんなに賢くても、孤独なのだ。凡人も天才もきっと。
何故なら誰も誰ひとりとして、自分以外の悲しみも苦しみも寂しさも遣る瀬無さも感じられないからだ。理解も実感もできない。他人だからだ、同一ではないから。
そして、本当に自分が悲しい時苦しい時寂しい時遣る瀬無い時、本当に誰かが寄り添っている、ということはない。
誰かと一緒にいても孤独に感じることもあれば、ふとひとりの時に本当にしんどい哀しさに襲われることもあるからだ。
わたしはまだ孤独だ。いつか孤独ではなくなるのだろうか。


わたしの中の幼子は、どうやら中学生の頃には居たらしい。
わたしが友達と遊んだ日の夜に泣きじゃくって眠れなかったのは、中学1年生の頃からだから、その時には居たのだろう。
笑うことに疲れたのか、一緒にいたのに布団に入る頃にはいなくて寂しかったのか。今でも夜な夜な泣いた理由はわからない。


手が止まった。
続きはまた今度。

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