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バイヤーになったわけ

2002年から、お店をやっている。

7/1は、そのお店をオープンした日。
もう15年もやってることになる。
人間だったら、だんだん大人になってきた子供ってところか。
だから、私の中ではなんとなく、15になる娘が居るみたいなイメージ。

写真に貼っている金の糸とシェルのネックレス。
このシリーズは私が初めての買付けで仕入れたもの。
15年経った今でさえ、デザインが古くない。
いま見ても偉い。
この時の私の感性はなかなか偉かったと思う。
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2005年のわたしは、年に2回、マニラの展示会に行くのが仕事だった。
展示会に行かない日は、ホテルの近くをご多分に漏れずブラブラ歩いた。
当時のマニラは治安が極めて悪く、日本円にして3万円で殺し屋を雇えるような国。
つまり命の価値が極めて軽い、人件費が安い国だった。
この国では毎年クリスマスになると、
強盗が多発する。
家族にプレゼントを買うために、強盗するらしい。
切なすぎるな。何しろ治安が悪いし、ひたすら雇用が無い。
気にいらない人には、居なくなってもらえばいい。
自分だけ生きればいいという世界が本当にあるのだ。
街中には建設とちゅうで資金がなくなり、
工事を放棄された建物が廃墟としてゴロゴロある。おかげで街は暗かったし、そこには勝手に誰か住む。
タクシーで空港から市内に向かうと、大きな道路にはストリートチルドレンが沢山サッカーをしていた。
当時20代前半の大学出立ての私には襲撃の光景でしかなかった。

船会社のフィリピン人の友達さえ、来期自分は雇用を延長してもらえるか分からないの、と笑って言っている。彼女達は英語は堪能で日本でいう東大卒くらいの人たちでも居て、遥かに優秀で一生懸命。

どうしてこんなに働けないのか。
一方で、まあまあな頑張りでも生きられる国から来たワタシ。
雇用さえ有れば、来期無職になる心配なんてしなくてすむし、年末の強盗も減るだろうし、治安の悪さもマシになるんだろうな、と。
コロナで大変だったこの4月も、外出禁止の時期に外出して警察の言うことを聞かない場合は、射殺して良いという大統領令がフィリピンでは出ているというニュースを聞いた。
20年も経ってもまだ変わらないのね、と愛想を尽かして別れてしまった昔の恋人を思い出すような気持ちでニュースを見ていた。

話はそれたけど。

私ができることは毎年発注し続けて、工場の人が暇にならないくらいの発注をすれば良いのでは。と思った。付き合いのある工場のオーナーに、聞いてみた。
工場の人に辞めないで貰うためには、コンスタントな発注が、今年だけでなく、来年もその先もなきゃダメなんだよ、一回の発注はありがたいけど、一回だけじゃだめなんだ、と言われた。
敗北感しかなかった。
しかし私が好きな買い物で、女の子たちが楽しく買い物をし、結果在庫がなくなればまた発注するのだ。
毎年アテにしてもらえるような発注をする、いつか大きなバイヤーになるんだ。
というのが、次第に私の夢になった。
初めての発注は、25万だった。

15年経ってみて、
状況はかなり変わったし、考え方も変わった。

変わってしまっていたなあという、寂しい部分や、原点回帰してもいいかもな、という思いもある。

でも、1番は発注しようとする商品は、中国とか外国より、日本で作られたものにしたい、国内の発注を増やしたい、と思ったりしている。

状況が状況だから、日本の景気に貢献できたらいいと思うと、日本のメーカーに発注したい。

昔から買うものも、買う国も変わった。
いまや、一回で1億は発注できるまでになった。

こんなに買う自分になったか。と落ちついてしみじみしたりする。
25万をおっかなびっくり買っていた私の18年後が今だよ、と。

この仕事が辛すぎたときを経ても、
この仕事をする私の核は変わっていないことに、書いていて気づいた。
頼もしい部分もあるんだな。

あれから私が生み出したお店は、
随分小さな可愛らしい規模にサイズダウンし、柔軟に形を変えている。

そんな、私の小さな小さなお店の、
オープン16年目に突入した日の夜の考えごと。



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