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トゥーバのマッガルが今年も開かれました!

ウォロフ語勉強会、今月は少々夏季休暇気味です。というのも、メンバーの多くがフィールドのセネガル現地に行っているからで…!
残念ながら私は今年は執筆が忙しく渡航できませんが、現場からのブログ記事も届くことと…、お待ちしています!

8月22日、23日に、セネガルの主要イスラーム教団※の一つ、ムリッド教団の最も大きなイベント、聖地トゥーバのマッガルが開かれました!

※下のコミックにも描きましたが、「教団」という訳の語感が日本語だとどうしても怪しいセクト的なイメージになってしまうのですが、セネガルの教団(タリーカ)には、ムスリム全体の80%ほどが所属しています。日本の感覚だと、仏教徒で日蓮宗、真言宗とか、どこの寺の檀家の所属宗派か…ぐらいの、一般的な宗教属性の感覚に近いのを一言付け加えておきます。ムリッド教団について、より詳しくは池邉(2023)を参照。

例年どんどん参加者が増え続けているというこのイベント、去年は300万人が集まったといわれ、今年は500万人を超えるのではないか、という想定も…。(一体何のイベントなのか、マンガの下にちょっと解説もしています)

先日お電話した友人が現場からの声を伝えてくれたので、インスタのコミックエッセイにしました。まだトゥーバの現場にお友達がいるタイムリーなうちに・・・こちらのブログにも共有します!↓

ムリッド教団の一大イベント、マッガルのなりたち

言葉としての、màggal は、動詞 「称賛する」、「祝う」などの意味と、名詞で「称賛すること」、「お祝いすること」、という意味があります。ムリッドの巡礼の宗教祭事としての「マッガル」があまりに有名になったので、辞書にも固有名詞として「ムリッドが、シェーク・アーマド・バンバの流刑からの帰還を祝って行う宗教祭事」と言う意味が載っているほどです(Jean Léopold DIOUF, 2003)。
 
 え、「帰還」?流刑への「出発」、ではなく?…と私は思ってしまいました。実は、マッガルのお祝いの日、そしてそれが意味するところは、時代を追って変わってきたようなのです。今も信者たちにマッガルの由来を聞くと、人によって「出発」「帰還」どっちもの答えが返ってきます。なぜ?
 実は、マッガルは、今でこそイスラーム暦(月暦のヒジュラ歴)の、2か月目の月、サファル月の18日に祝われていますが、常にそうだったわけではないようです。
 上のコミックエッセイにも書いたように、アーマド・バンバという人物は、20世紀後半、フランスが現地に暮らすウォロフの人々の伝統王朝を武力で崩壊させていった時代に、カリスマ的なイスラームの導師として、当時路頭に迷っていた武士や農民たちを集めるようになりました。
 著名なイスラーム学者、そして優れたイスラームの神秘家(スーフィ―)として、弟子をどんどん引き付けていくバンバにフランスは危機感を持ち、何度も出頭命令を出すもバンバは全無視。ついには移動中の彼を拘束し、当時の行政の中心だったサンルイ市に連れていきます。
 そこで1895年、バンバは初めの流刑先であるガボンへ流されることが言い渡されました。
 著名なムリッド教団の伝説の一つが、その流刑へ向かう船の上でお祈りを禁止されたバンバが、海の上に絨毯を広げて祈り、平然と帰ってきた、というもので、ガラス絵や壁画など、色々な絵にも描かれています。
 サンルイ市でも、毎年「ニャーリ・ラッカ」※と呼ばれる大きなマッガルが開催されます。このイベントの経緯についてはまたいずれ…。

この「海の上の祈り」の奇跡の出来事を再評価し復興する会、まで発足しているようです…!↓(仏語)

https://www.xibaaru.sn/un-collectif-dappui-a-la-priere-sur-la-mer-de-serigne-touba-voit-le-jour/

※ニャーリは2、ラッカは、イスラームの礼拝の際にする一連の章句の暗唱と身振りの単位のことです)

マッガルが「追憶したい」ものと「祝う」もの

 そもそも、マッガルが始まった当時、アーマド・バンバ本人が追憶して祝おうと決めたのは、実は彼のトゥーバへの「帰還」ではなく、ガボンへの最初の流刑への「出発」だったと言われています(Bava, Gueye, 2001; 425)。場所もまだ今のモスクは無く、当時拠点としていたトゥーバ近郊のジュルベルでした。
 ただ、なぜバンバは、いうなれば受難のはじまりとも言えるこのできごとを「祝おう」としたのでしょう?
 それは、恐らくイスラーム神秘主義の敬虔な信者の一種の修行に対する考え方で、受難や苦痛は神から与えられた神聖な試練のはじまりである、というのが根本にあるのかもしれません。フランス植民政府の手によって「島流し」の憂き目にあったバンバは、信者や慣れ親しんだ暮らしから離され、一人孤独な数年間を過ごします。しかし、スーフィ―である彼は、それを一人神に向き合うための一種の試練、神の道への奉仕、と受け止めたのではないでしょうか。この、還俗的な自分自身に対するスピリチュアルな戦いを、イスラーム、そしてスーフィズムでは「大きなジハード」と言います(Babou, 2007)。
この流刑を期に、実は聖人としてのバンバは習熟を極め、奇跡の伝説もいくつも生み出され、帰依する信者が後を絶たない「大盛況」の事態となります。当時、バンバの帰りを待ちつつ、信者たちを組織していった教団幹部の面々の能力が高かった、というのも一つの理由ではあるでしょう…。
 神からのサイン、現世への「おしるし」を、イスラーム神秘主義の信者たちは「アーヤ」と呼びますが、フランス人によって当時未開の地、野蛮な地などと言われたガボンに流刑にされた、というのは、単なる不運というだけではなく、バンバが聖人として大きな成長を遂げるための、とても象徴的なできごととなったのです。(バンバがいたのは、ガボンのマヨンべ島というところです。いつか行ってみたい…)
 1902年にガボンから帰ってきたバンバは、翌1903年から1907年まで、今度はモーリタニアに留置されることになります。しかし当初は懐疑的だったフランスも、バンバに武力行使や植民地政府に対立する意思が皆無だということを、やっと理解します。バオルの地に帰った彼は、信者に囲まれ、農業と落花生栽培を主な経済基盤とするコミュニティで、平和に神への詩を書いて余生を暮らすことができました。

 バンバがマッガルの日として選んだのは、自らの受難がはじまった、つまり最初の流刑に処されたサファル月の18日目(毎年イスラーム月の2月18日)でしたが、彼が亡くなった後、彼の最初の後継者であり、教団の初代カリーフになった彼の長男、ムハマドゥ・ムスタファ・ンバケ(1888‐1945)は、バンバの命日である第1月目のムハッラム月の19日に行うことにしました。彼の着任した1928年から、没する1945年まで間、つまり一代目カリーフの任期の間、マッガルはバンバの命日を追悼する行事に、意味が変わったことになります。これは、創始者を亡くした信者たちには、特に疑問なく受け止められたことでしょう。バンバを失った悲しみと教団の新たな団結を必要とする第一歩として、引き続きたくさんの信者が集まるイベントとなっていきます。
 マッガルは、その後2人目のカリーフとなったファルー・ンバケによって、バンバが指定したサファル月の18日に戻され、今に至ります。

 この間も、トゥーバの町は拡大しつづけ、信者も巡礼者も毎年増え続ける大盛況となっていきます。当初のアーマド・バンバの細々と「受難を追憶する」日、というはじめの意味合いから、マッガルは果てしなく発展しつづけ、今やムリッド信徒にとってこの日は、バンバの功績をたたえ、彼らのコミュニティがフランスの植民地支配に負けず、欧米支配に屈せず、ここまで大きなコミュニティに発展したことを祝う、という意味合いが付随するようになりました。
 創始者であるバンバを讃え祭り、コミュニティの絆を深める大事なイベントとして、年に一度の大きな信者達大集合の日、これが今のマッガルの新たな定義にもなってきています。
 
 そういうわけで、説明する信者によって、マッガルの意味合いはまちまちですが、年々増え続けるセネガル全土や海外からのたくさんの信者たちが、みんなそろってモスクに集って国や世界の平和を祈り、バンバを讃え、唄い、踊る活気ある「推し活」的祭りで盛り上がります。そこでの喜々としたみんなの顔をみると、バンバが最初に求めていたマッガルの意図から、きっとそこまで外れてはいないのだろうな、と感じるのです…。

また引き続き、セネガル現地からの記事もお待ちしています!

(文責 阿毛香絵)

参考
池邉智基. セネガルの宗教運動バイファル――神のために働くムスリムの民族誌. 明石書店, 2023年.
Jean Léopold DIOUF "Dictionnaire wolof-français et dictionnaire français-wolof, Karthala, 2003.
Babou, Cheikh Anta Mbacké. Fighting the Greater Jihad : Amadu Bamba and the Founding of the Muridiyya of Senegal, 1853-1913. Athens : Ohio University Press, 2007. http://archive.org/details/fightinggreaterj0000babo.
Sophie BAVA, Cheikh GUEYE "Le grand magal de Touba: exil prophétique, migration et pèlerinage au sein du mouridisme" Social Compass 48(3), 2001, 413–430.

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