法然展(京都・後期)で展示される絵伝の詞書

https://www.kyohaku.go.jp/jp/exhibitions/special/honen_2024/
翻刻は『法伝全』より
https://www.jozensearch.jp/pc/

本朝祖師伝記絵詞(臨終の場面)

次年正月二日より老病のうゑに、日來不食殊增氣。
凡此兩三年、耳も不聞、心も耄耄として前後
不覺にましましけるが、更如昔明明になりて、
念佛つねよりも增盛也
仁和寺に侍ける
尼、上人往生の
夢に驚て、參じ
給ける
病床のむしろに、
人人問たてまつり
ける。御往生實
否如何。
答云、我本、
天竺國に
在とき、
衆僧に
交て、頭陀
を行じき。
今日本にして
天台宗に入て、かかる
事にあへり。抑今度
の往生は一切衆生
結緣のため也。
我本居せし
ところなれば、
ただ人を引接せ
んと思
十一日、上人、高聲念佛を人にすすむとて云、此佛を
恭敬し、名號を唱人、一人も不空と云て、彌陀功德を種種
に讃嘆し給。彌陀常影向し給、弟子等不拜之哉云云そ
ののち二十日頃より念佛高聲にねんごろなり。助音の人人は、おのづからこゑをほのかにすといへども、上人
の音聲は、ますます盡空法界にもひびくらん。抑
けふよりさき、七八年のそのかみ、ある雲客{兼隆朝臣}
夢に、上人往生のゆふべ、光明遍照
の偈を唱べしと、つげをかふむりしのち、
いまこの文をとなへて、廿四日より、廿五日
の午正中にいたるまで、念佛高聲にして、如夢
文を誦し給事、時にかなへり。天日光明を
ほどこす、觀音の照臨もとよりあらたなり
といへども、紫雲虚にそびて、勢至の迎接
おりをえたり。爰に音樂、窓にひびく。歸佛
歸法の耳をそばたて、異香室にみて
り。信男信女の袖をふるる間、慈覺
大師附屬の法衣を著して、頭北面
西にして、念佛數遍唱給の後、一息と
どまるといへは、兩眼瞬がごとし。手足
ひへたりといへども、唇舌をうごかす事
數遍也。行年四十三より、毎日七萬遍にて、
無退轉{云云}
光明遍照十方世界 念佛衆生攝取不捨 南無阿彌陀佛 々々々
兼日に往生の告をかふむる人人、前權右辨藤原兼隆朝臣、權律師隆寬、白川准后宮、別當入道、
尼念阿彌陀佛、坂東尼、一切經谷住僧大進公、陪從信賢、祇陀林經師、薄師眞淸、水尾山椎夫、
紫雲見之以上圖中の詞書[御往生の圖]
于時建暦二年壬申正月廿五日午剋遷化行年滿八十伏以、釋尊圓寂の月にすすめる事一月、荼毘の煙ことな
りと云ども、彌陀感應の日にしりぞくこと十日、利生の風これ同耶。觀音垂迹の勝地、勢至方便の
善巧如此。然後、門弟等、世の傍例にまかせて、遺骨をおさめ、中隱ををくる
初七日 御導師 信蓮房
不動尊
大宮入道内大臣御家之御諷誦文云
夫觀、先師在世之昔、弟子遁朝之夕、凝一心之精誠受十重之禁戒故憑濟度於彼岸敬修諷誦於此
砌。莫嫌少善根必爲大因緣仍爲餝蓮臺之妙果早叩霜鐘之逸韻矣
別當前周防守源朝臣盛親敬白 初七日法事の圖
二七日
普賢菩薩
建暦二年二月十三日、別當入道孫不知名 夢想に、上人御葬送、淸水寺の塔に入給ぬと見て後、一兩
日をへて又夢に、隣房の人云、御葬送に不會遺恨の由申に同事也。御葬のところへまいり給へ。依
之彼所參の處、八幡宮の御戸開とおぼゆる所に、八幡宮の御體也と申。隣人答云、此こそ法然上人
御體よと申につけて、大菩薩の本地を眞道上人祈請申給しかば、示し給文に、昔於靈鷲山説妙法
花經今在正宮中示現大菩薩と示給しかども、行敎和尚のたもとのうゑに、あみだ如來うつり給。
また垂迹を申せば、むかしは、鷹とあらはれ、いまは鳩と現じまします。鷹鳩易變、釋迦彌陀如此。
娑婆にしては釋尊、安養にしては彌陀、只一體分身、更更うたがふことなかれ
三七日 御導師 住信房
彌勒菩薩
末弟耽空法師捧誦經物唐朝の王義之摺本一紙面十二行八十餘字書之
にしへ義之べきみちのしるべせよむかしもとりのあとはありけり安息國之鳥故云云
四七日 御導師 法蓮房
正觀音
弟子良淸願文云、先師、當末萬年之始弘彌陀一敎の勝智惠提劔、莫耶之鋒非利。戒行瑩珠、摩
尼之光比明云云 三度、遺弟聞酷烈之氣倩思誠諦之言雖諳菩提之願掲焉意旨彌以伏膺云云
五七日 御導師 權律師隆寛
地藏菩薩
弟子源智願文云、彩雲掩軒、近見遠見而來集、異香滿室、我聞人而嗟嘆矣
六七日 御導師 法印大僧都聖覺
釋迦如來
無動寺前大僧正慈鎭御諷誦文云、佛子、上人存日之間、時談法交常用唱道結緣之思不淺、濟度之
願如深。因茲、當七七忌辰聊修諷誦三鳴花鐘擎法衣送往生之家解脱之衣是也。設法食儲化
城之門禪悦之食是也。然則幽靈答彼平生之願必往生上品之蓮臺佛子因此圓實之廻願早得最初引
接也 御自筆
七七日 御導師 三井僧正公胤

弘願本(知恩院)(流罪の場面)

同三月二十六日に讃岐國鹽秋の地頭するがの權の守高
階の時遠入道西仁が館に付給。さまざまのきらめきに
て美膳をたてまつり、湯たかせなどして心ざしいとあ
りがたけり。是を御覽じて上人の御歌
極樂もかくやあるらんあらたのし
とくにまゐらばやな無阿彌陀佛
阿みだ佛といふよりほかは攝津國の
なにはの事もあしかりぬべし
又云、名利は生死の木綱、三途の鐵網にかかる。稱名
は往生の翼、九品の蓮臺にのぼる
時遠入道西仁間たてまつりて云、自力他力のこといか
が心得べき。答云、源空は上へまゐるべき器量にては
なけれども、上よりめせば二度までまゐりたりき。是
はわがまゐる式にてはなけれども、上の御力なり。ま
して阿彌陀佛の御力にて稱名の願に答て、來迎させ給
はん事をば何の不審かあらん。自身をもければ、無智
なれば佛もいかにしてかすくひ給はんなど思はん事は
つやつや佛の願をしらざる人也。かかる罪人をやすや
すとたすけん折にをこし給へる本願の名號を唱ながら
塵ばかりも疑心あるまじきなり。十方衆生の中には、
有智無智、有罪無罪、善人惡人、持戒破戒、男子女人
三寳滅盡の後の百歳までの衆生みなこもれり。三寳滅
盡彼の時の念佛者にくらぶれば、當時の主入道殿など
は、佛のごとし。彼時は人壽十歳とて戒定惠の三學の
名をだにもきかず、いふはかりもなきものどもの來迎
にあづかるべき道理をしりながら、わが身のすてられ
まゐらすべき樣をば、いかがして案じいだすべき。只
極樂のねがはしもなく、念佛申されざらん事のみこそ
往生のさはりにてはあるべけれ。かるがゆへに、他力
の本願とも超世の悲願とも申なり。時遠入道いまこそ
心得候ぬれとて、手合て悅たり
上人時遠入道が舘にて饗應をうけ給ふ圖
同行達名に聞へたる所なり。いざや讃岐の松山みんと
云けるに、我もゆかんとて上人もわたり給たりけるに
人人面白さにたへずして、一首づつあるべきよしいひ
ければ
いかにしてわれ極樂にむまれまし
みだのちかひのなきよなりせば
人人この御歌落題に候、松山遠流のけしき候はずと難
じ申ければ、さりとては所の面白て心のすめば、かく
いはるるなりと、仰せられければ、みななみだをとし
てけり
上人松山觀櫻の圖
讃岐國小松の庄は弘法大師の建立、觀音靈験の所生福
寺に付給。抑當國同き大師父のために名をかりて、善
通寺と云伽藍をはします。記文に云、是にまいらん人
はかならず一佛淨土のともなるべきよし侍りければ、
今度のよろこび是にありとて、すなはちまいり給けり
上人生福寺に參詣の圖
建暦元年八月歸登給べきよし、中納言光親卿承てあり
けるに、しばらく勝尾勝如上人の往生の地、いみじく
をぼえて御とうりうありけるに、道俗男女まいりあつ
まりけり
上人勝尾寺に御逗留の圖
かくて恒例の引聲念佛聽聞のおはりに、僧の衣裳こと
樣なりければ、信空上人のもとへこの樣を仰られて、
裝束勸進のよしありければ、程なく法服十五具すすめ
いだして、もちてまいり給けり。感にたえずして住僧
等、臨時の念佛七日七夜勤修す
勝尾寺にて引聲念佛御勤修の圖
黑谷上人繪
釋 弘願

増上寺本(出家の場面)

(剃髮出家の圖)
おなしき六年生ねん十八のとしより道念やうやくお
こるあひた黑谷の上人叡空の禪室にたつねいたる上
人發心のはしめをとひ給に先考已卒のときより多年
住山の今にいたるまて世上の無常をみきくにかなし
み銘肝すなと申つつけらるれはさては法然具足のひ
しりにこそとのたまふけるよりそ名はつき給にける
かくしつつ遁世したまふにけれはしつかに華嚴經を
轉讀せらるるに虵いてきたるをみて弟子源空上人あ
やしみおそるる夜のゆめになむちおそるる心なかれ
われは上人守護の靑龍なりといふ又暗夜に經論みた
まふに光明室をてらすことひるのことし末代の不思
儀上古にもありかたくや侍へき

琳阿本8(東京国立博物館)
臨終の場面(妙定院本と微妙に違うため翻刻は載せない)

法然上人絵伝(勅伝)第42巻(納骨の場面)

(法伝全p267)
遺骨をひろひ、寶瓶にをさめたて
まつり。幸阿彌陀佛にあづけをきて、おのおの
退散しぬ。そののち正信房のさたと
して、かの芳骨をおさめたてまつらむ
ために、二尊院の西の岸の上に雁塔を
たてて、貞永二年正月廿五日に、正信房
御骨の御むかへに、粟生野の幸阿彌陀佛の
もとに罷向ところに、幸阿彌陀佛は、御
骨を庵室のぬりごめに、ふかくおさめ
をきたてまつりて、鎭西に下向しにけり。
かぎをたづぬるに、ぬりごめをひらくべから
ざるむね、かたくいましめをきて、鎰を
あづけをかれざるよし。留守のものこたえ
申あひだ、仰天きはまりなし。相伴とこ
ろの門弟廿八人、面面に力をつくしをして
戸をひらかむとするにかなはず、むなしく
歸なんとする時、御在世ならば、湛空が參
たるよし申いれんに、などか見參に
いらでむなしく歸るべきと。なくなくくど
き申されけるにぬりごめのくるる
なるやうにおぼえければ、門弟の中に
ちかく侍る信覺といふ僧に、いま一度
戸をひきてみよと、正信房申され
ければ、信覺たちよりて戸をひらくに、
相違なくあきにけり。嘆申おもむきを
聞食入られけるにこそとて、歡喜の涙を
ながし、御骨をむかへたてまつりて、塔中
にをさめたてまつりぬ

法然上人絵伝(勅伝)第37巻(臨終の場面) 

廿日の巳時に、坊のうへに紫雲そびく。中に圓形の雲あり。その色五色にして圖繪の佛の圓光の
ごとし。路次往反の人處處にしてこれを見る。弟子等申さく、このうへに紫雲あり。御往生のちか
づき給へるかと。上人の給はく、あはれなるかなや、わが往生は一切衆生のためなり。念佛の信を
とらしめむがために瑞相現ずるなりと。又おなじき日の未の時にいたりて、空をみあげて、目しば
らくもまじろぎたまはざる事五六反ばかりなり。看病の人人あやしみて、佛の來給へるかとたづね
申せば、然なりとこたえ給。又廿四日の午時に、紫雲おほきにたなびく。西山の水の尾の峰に、す
みやくともがら、十餘人これをみて來てつげ申。廣隆寺より下向しける禪尼も、途中にしてこれを
みて、たづねきたりてこのよしを申す、見聞の諸人隨喜せずといふ事なし
第四圖
廿三日よりは、上人の御念佛あるひは半時、あるひは一時、高聲念佛不退なり。廿四日の酉尅よ
り、廿五日の巳時にいたるまでは、高聲體をせめて無間なり。弟子五六人、かはるがはる助音する
に、助音は窮屈すといへども、老邁病惱の身をこたり給はず、未曾有の事なり。群集の道俗、感涙
をもよをさずといふ事なし。二十五日の午尅よりは、念佛の御こえやうやくかすかにして、高聲は
ときどきまじはる。まさしく臨終にのぞみ給とき、慈覺大師の九條の袈裟をかけ、頭北面西にして
光明遍照、十方世界、念佛衆生、攝取不捨の文をとなへて、ねぶるがごとくして息たへたまひぬ。
音聲とどまりてのち、なを唇舌をうごかし給事十餘反ばかりなり。面色ことにあざやかに、形容ゑ
めるに似たり。建暦二年正月廿五日午の正中なり。春秋八十にみち給。釋尊の入滅におなじ。壽算
のひとしきのみにあらず。支干又ともに壬申なり。豈奇特にあらずや。惠燈すでにきへ、佛日また
沒しぬ。貴賤の哀傷する事、考妣を喪するがごとし
第五圖
武藏の御家人、桑原左衞門入道不知實名と申けるもの、上人の化導をつたへききて、吉水の御房へた
づねまいりて、念佛往生の道ををしへられたてまつりてのちは但信稱名の行者となりにければ、歸
國のおもひをやめ、祇園の西の大門の北のつらに居をしめて、つねに上人の禪室に參じて不審を決
し、念佛をこたりなかりけるが、無始よりこのかた、常沒流轉して、出離その期をしらぬ身の、忽
に他力に乘じて往生をとげ、ながく生死のきづなをきらむ事ひとへにこれ上人御敎誡のゆへなりと
て、報恩のために眞影をうつしとどめたてまつりけり。そのこころざしを感じて、上人みづからこ
れを開眼したまふ。上人御往生の後は、ひとへに生身のおもひをなして朝夕に歸依渇仰す。かの入
道ついに種種の奇瑞をあらはし、往生の素懐をとげにけり。年來同宿の尼本國へかへりくだるとき
件の眞影を知恩院へ送たてまつる。當時御影堂におはします木像これなり

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