トーハク常設展に展示されている拾遺古徳伝の詞書

本館3室で拾遺古徳伝(常福寺)が展示されているので、詞書を法伝全から紹介します。
https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=7795
「真宗重宝聚英」を確認して改行

第8巻 法然上人の臨終(法伝全p639)

同二年正月二日より、老病不食、ことに増氣せり。
すべてこの三四年、耳目惽暗として、色をみこゑ
をきくこと、ともにつまびらかならず。而に終焉
の期にのぞみて二根明利なること昔にたがは
ず、餘言をまじへず、ひとへに往生の事を談じ、
高聲念佛たゆることなし。同三日、或御弟子問て
云、今度の往生決定歟。答て云、我もと極樂にありし
身なれば、定てかへりゆくべしと。或時又弟子に
告て云、我本天竺にありて、聲聞僧に交て、頭陀を
行じて化度せしめき。今粟散片州の堺に生を
受て念佛宗をひろむ。衆生化度のために此界に
たびたび來き。十一日の辰尅に、聖人起居て高聲
念佛したまふ。聞人みな歡喜の涙をながす。弟子
等に告てのたまはく、高聲念佛すべしと。阿彌陀佛
顯現したまふなり。この佛の名號を稱すれば
本願力によるがゆへに、一人も往生せずといふこと
なしと云て、念佛の功德を讃嘆し、彌陀の本誓
を宣説したまふこと、宛も昔のごとし。聖人又云、觀音
勢至等の菩薩聖衆、現前したまへり。をのをのおがみ
たてまつるやいなやと。弟子等おがみたてまつらず
と云云。これをききていよいよ念佛すべしとすすめ
たまふ。又三尺の彌陀の像を病床の右にすへ
たてまつりて、此佛拜したまふべしと。ときに
聖人、指をもて空をさしてのたまはく、この佛
の外にまた佛おはします。おがむやと。すなはち
かたりていはく、凡この十餘年より以來、念佛功積て
極樂の莊嚴をよぴ佛菩薩をみたてまつること
これ常恆の事なり。然而人にこれをいはず。いま終焉
ちかきにあり、故にこれをしめす。又御弟子等、佛
の御手に五色の糸をかけて、これとりたまへと。
聖人云、かくのごときのことは、これ常の人にとり
てのことなり、我身にをきては不可然とて、つゐに
取たまはず、廿日の巳時に紫雲房の上に垂布せり。
其中に圓形の雲あり、繪像の圓光のごとくして
五色鮮潔なり、路次往反の人、處處にこれをみる。弟子
まふさく、このうへに奇雲まさにつらなれり。往生
のちかづきたまへるかと。聖人ききてのたまはく、
哀哉哀哉、我往生の瑞相は、ただ一切衆生をして
念佛を信ぜしめんがためなりと。未時にあたりて、
ことに目をひらきて西方へみをくりたまふこと
五六遍、そのとき看病の人、問て云、佛のあらはれた
まふかと。答て云、爾也と。おほよそ明日往生のよし、
夢想の告によりて驚來て終焉にあふもの五六許
輩也。かねて往生の告をかふる人人、前權右中辨
藤原兼隆朝臣、權律師隆寬、白河准后宮女房、別當
入道{惟方卿}、尼念阿彌陀佛、坂東尼、陪從信賢、祗陀林經師、
一切經谷住僧{大進公}薄師眞淸、水尾山樵夫、このほか紫雲
をみる人、數をしらず。又彌陀の三尊、紫雲に
乗じて來現したまふをみる人人、信空上人、隆寬律
師、證空上人、空阿彌陀佛、定生房、勢觀房。又七八年
さきだちて兼隆朝臣夢にみる。聖人御臨終には、
光明遍照の四句の文を唱たまふべしと。爰聖人廿三
日以後三日三夜、或は一時、或は半時、高聲念佛不退
のうへ、ことに廿四日の酉尅より廿五日の巳尅にいたる
までは、高聲念佛體を責て無間なり、無餘なり。弟子
五六人、番番に助音す。助音の人人は窮屈にをよぶ
といへども暮齢病惱の身、勇猛なることは奇特の
事也。まさしく最後{廿五日午正中}にのぞむとき、年來所持の
慈覺大師の九帖の袈裟をひきかけて、光明遍照
十方世界、念佛衆生攝取不捨の文を誦して頭北
面西にして念佛の息絶畢ぬ。音聲止て後、猶脣舌を
うごかすこと十餘遍也。于時春秋滿八十、夏臈六十六、
身體柔軟にして容貌つねのごとし。惠燈すでに
きえ、法舟又没すとかなしみあへることかぎりなし。
音樂窓にひびく。歸佛歸法の耳をそばだて、異香室に
みてり。信男信女の袂に薫ず。或は紫雲を拜する人、
或は靈夢を感ずる輩不可勝計。筆墨にひまなく、
委註にあたはず。三春何なる比ぞ、釋尊滅をとなへ
聖人滅をとなふ。彼は二月中旬の五日、是は正月下
旬の五日。八旬何なる年ぞ、釋尊滅をとなへ聖人
滅をとなふ。彼も八旬也、是も八旬也

伏以釋尊圓寂の月にすすめること一月、荼の煙こ
となりといへども、彌陀感應の日にしりぞくこと十日
利生の風これ同哉。觀音垂迹の濟度、勢至方便の善巧
以如斯。悲哉貴賤哀慟して考妣を喪せるがことし。弟子
等哽絶して坊の東に埋畢ぬ

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