法然展で展示される絵伝の詞書

現在「法然と極楽浄土展」で展示されている法然上人絵伝の詞書を『法然上人伝全集』(法伝全)から紹介します。
会場でぱっとメモしたので、違う箇所を紹介しているかもしれません。
『法伝全』のデータはこちらから見ることができます。
https://www.jozensearch.jp/pc/
原本の写真について『勅伝』は「続日本絵巻大成」、善導寺本と妙定院本は「法然上人絵伝集成」、常福寺本は「真宗重宝聚英」を確認して改行しました。

法然上人絵伝(勅伝)知恩院
第31巻 七箇条制誡の場面(法伝全p202)
上人この事を聞給て、すすみては
衆徒の欝陶をやすめ、しりぞき
ては弟子の僻見をいましめむため
に、上人の門徒をあつめて、
七箇條の事をしるし起請をなし、
宿老たるともがら八十餘人をゑら
びて連署せしめ、ながく後證に
そなへ、すなはち座主僧正に進ぜらる。
件起請文云
 あまねく予が門人念佛の上人につぐ
一、いまだ一句の文義をうかがはずして
眞言止觀を破し餘の佛菩薩を
謗ずることを停止すべき事
一、無智の身をもちて有智の人に
對し、別解別行の輩にあひて、
このみて諍論をいたす事を
停止すべき事
一、別解別行の人に對して、愚癡偏執の心を
もちて、本業を棄置せよと稱して、
あながちこれをきらひわらふ事
を停止すべき事
一、念佛門にをきては戒行なしと
號して、もはら婬酒食肉をすす
め、たまたま律義をまもるをば雜行
人となづけて、彌陀の本願を憑
ものは、造惡をおそるることなかれと
いふ事を停止すべきこと
一、いまだ是非をわきまへざる癡人、
聖敎をはなれ、師説をそむきて、
ほしきままに私の義をのべみだりに
諍論をくはだてて、智者にわらはれ、
愚人を迷亂する事を停止す
べ事
一、愚鈍の身をもちて、ことに唱導を
このみ、正法をしらず種種の邪法
をときて、無智の道俗を敎化する
事を停止すべき事
一、みづから佛敎にあらざる邪法を
ときて、いつはりて師範の説と號
することを停止すべき事
元久元年{甲子}十一月七日沙門源空 在判

法然上人絵伝(勅伝)知恩院
第42巻 遺骨を二尊院に(法伝全p267)
遺骨をひろひ、寶瓶にをさめたて
まつり。幸阿彌陀佛にあづけをきて、おのおの
退散しぬ。そののち正信房のさたと
して、かの芳骨をおさめたてまつらむ
ために、二尊院の西の岸の上に雁塔を
たてて、貞永二年正月廿五日に、正信房
御骨の御むかへに、粟生野の幸阿彌陀佛の
もとに罷向ところに、幸阿彌陀佛は、御
骨を庵室のぬりごめに、ふかくおさめ
をきたてまつりて、鎭西に下向しにけり。
かぎをたづぬるに、ぬりごめをひらくべから
ざるむね、かたくいましめをきて、鎰を
あづけをかれざるよし。留守のものこたえ
申あひだ、仰天きはまりなし。相伴とこ
ろの門弟廿八人、面面に力をつくしをして
戸をひらかむとするにかなはず、むなしく
歸なんとする時、御在世ならば、湛空が參
たるよし申いれんに、などか見參に
いらでむなしく歸るべきと。なくなくくど
き申されけるにぬりごめのくるる
なるやうにおぼえければ、門弟の中に
ちかく侍る信覺といふ僧に、いま一度
戸をひきてみよと、正信房申され
ければ、信覺たちよりて戸をひらくに、
相違なくあきにけり。嘆申おもむきを
聞食入られけるにこそとて、歡喜の涙を
ながし、御骨をむかへたてまつりて、塔中
にをさめたてまつりぬ

法然上人絵伝(副本)奥院
第1巻 夜襲(法伝全p5)
かの時國は、先祖をたづぬるに、仁明天皇の御後西三條右大臣{光公}の後胤、式部大郎源の年、陽
明門にして藏人兼高を殺す。其科によりて美作國に配流せらる。ここに當國久米の押領使神戸の大
夫漆の元國がむすめに嫁して男子をむましむ。元國男子なかりければ、かの外孫をもちて子として
その跡をつがしむる時、源の姓をあらためて漆の盛行と號す。盛行が子重俊、重俊が子國弘、國弘
が子時國なり。これによりてかの時國いささか本姓に慢ずる心ありて、當庄{稻岡}の預所明石の源内
武者定明{伯耆守源長明が嫡男堀川院御在位の時の瀧口也}をあなづりて、執務にしたがはず、面謁せざりければ、定明ふかく遺
恨して、保延七年の春時國を夜討にす。この子ときに九歳也。にげかくれてもののひまより見給ふ
に、定明庭にありて、箭をはげたてりければ、小矢をもちてこれをいる。定明が目のあひだにたち
にけり、この疵かくれなくて、事あらはれぬべかりければ、時國が親類のあだを報ぜん事をおそれ
て定明逐電してながく當庄にいらず。それよりこれを小矢兒となづく、見聞の諸人感歎せずといふ
ことなし

法然上人絵伝(副本)奥院
第34巻 流罪(法伝全p229)
鳥羽のみなみの門より、川船にのりてくだりたまふ

伝法絵流通(四巻伝)善導寺
第4巻 往生(法伝全p494)
※伝法絵流通断簡(臨終)と場面が対応している。
次年正月二日より老病のうゑに、日來不食殊增氣。
凡此兩三年、耳も不聞、心も耄耄として前後
不覺にましましけるが、更如昔明明になりて、
念佛つねよりも增盛也
仁和寺に侍ける
尼、上人往生の
夢に驚て、參じ
給ける
病床のむしろに、
人人問たてまつり
ける。御往生實
否如何。
答云、我本、
天竺國に
在とき、
衆僧に
交て、頭陀
を行じき。
今日本にして
天台宗に入て、かかる
事にあへり。抑今度
の往生は一切衆生
結緣のため也。
我本居せし
ところなれば、
ただ人を引接せ
んと思
十一日、上人、高聲念佛を人にすすむとて云、此佛を
恭敬し、名號を唱人、一人も不空と云て、彌陀功德を種種
に讃嘆し給。彌陀常影向し給、弟子等不拜之哉云云そ
ののち二十日頃より念佛高聲にねんごろなり。助音の人人は、おのづからこゑをほのかにすといへども、上人
の音聲は、ますます盡空法界にもひびくらん。抑
けふよりさき、七八年のそのかみ、ある雲客{兼隆朝臣}
夢に、上人往生のゆふべ、光明遍照
の偈を唱べしと、つげをかふむりしのち、
いまこの文をとなへて、廿四日より、廿五日
の午正中にいたるまで、念佛高聲にして、如夢
文を誦し給事、時にかなへり。天日光明を
ほどこす、觀音の照臨もとよりあらたなり
といへども、紫雲虚にそびて、勢至の迎接
おりをえたり。爰に音樂、窓にひびく。歸佛
歸法の耳をそばたて、異香室にみて
り。信男信女の袖をふるる間、慈覺
大師附屬の法衣を著して、頭北面
西にして、念佛數遍唱給の後、一息と
どまるといへは、兩眼瞬がごとし。手足
ひへたりといへども、唇舌をうごかす事
數遍也。行年四十三より、毎日七萬遍にて、
無退轉{云云}

法然上人伝(増上寺本)
下巻 大原問答(法伝全p587) 
法眼顯眞おほはらに居住のとき、諸宗の學者をのの
群集して、たがひに自宗のむねをのべほこさきをあら
そふきざみ、上人諸敎まこと殊勝なりといへども、濁
世の凡夫のため散心念佛もとも機にあひかなへるよし
を談し申さるるに、顯眞涙をながして身づから香爐を
とり、行道して高聲念佛、諸宗の人人おなじく三晝夜
勤行のついでに、湛叡上人來迎院に不斷念佛を始行せ
らる。これおほはらの念佛のはじめなり

琳阿本(九巻伝) トーハク
第8巻 入滅
所の時建暦

拾遺古徳伝 常福寺
第5巻 清水寺・霊山(法伝全p615)
靈山にして三七日不斷念佛勤行あり、その間、
燈明いまだかかげざるほどに、光明忽然として堂中
を照耀することあり。また第五日の夜、各行道の
うしろに大勢至菩薩、諸共に行道したまふ。或人
これを拜す。聖人にかくとしめす。さること侍る
らんと答たまふ。これよりして粗大勢至の化身と
いうことを知ぬ

琳阿本(九巻伝) 妙定院
第3巻 清凉寺参籠(法伝全p550)
保元元年{丙子}上人生年廿四の春、倩天台
の一心三觀の法門を案ずるに、凡夫の得
度たやすからば、衆生の出離だにも
ゆるさば、縱小乘の倶舍婆沙なりとも
學せむと思て、求法のために師匠叡
空上人に暇をこひて、修行に出給ふとて、
先嵯峨の釋迦堂に七日參籠す。是則
一切衆生の生死をはなれ、罪惡凡夫の
淨土に生ずべき濫觴を大師釋尊の
この方の發遣、彌陀如來の彼方の來迎の
敎門、この時にひろまり、本願われらに熟
すること上人の開悟によりてあらはれ
侍べきにや

琳阿本(九巻伝) 妙定院
第4巻 清水寺(法伝全p556)
後鳥羽院御宇建久元年{庚戌}の秋清水寺
にして上人説戒の座に念佛すすめ給ければ、
寺家の大勸進沙彌印藏瀧山寺を道場と
して、不斷常行三昧念佛はじめける。開白發
願して能信香爐をとりて行道しはじむ。
願主印藏よりはじめて比丘比丘尼其數を
しらず。仁和寺の入道法親王の御夢想
と云云。このたき、過去にもこれありき現在にも
これあり、未來にもこれあるべし、すなはち
大日如來の鑁字の智水なりと示して、
おなじく詠じ給ふ
淸水の瀧へまいればをのづから現世安
穩後生極樂御使者大威儀師俊

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