三宿Webの思い出

東京を代表する老舗クラブ、三宿webが閉店する。

5月15日の早朝を駆け巡った衝撃的なニュースは瞬く間に拡散、一時はトレンド上位入りする程だった。

個人的にはコロナ関連で最もショッキングなニュースである。

僕もSNSで何か書こうとしたが言葉が出てこない。親しい人の訃報に近い思考停止というやつだ。

しばしベッドから起き上がれず、Webで過ごした濃密な時間の事、26年お店を守ってきた店長の長澤さんの事をぼんやり考えた。

自分は1994年の開店からお店に通い、イベントも何年もやらせてもらった。思い出は数え切れないほどある。

決して短くない26年という月日。記憶が走馬灯の様に流れていく。

腹が捩れるほど笑った夜もあったし喧嘩もした。出会いも別れもあった。飲みすぎてトイレで吐いたりバカも沢山した。

あのイベント名なんだっけ、、、あの人元気かな?、、、あのお酒美味しかったな、、、あのよくかかってた曲なんだっけ、、、、、

涙が出る感覚とも違う。感傷的にもならない。正直いつかはこの時が来るとは覚悟していたので驚きもそれほどでもない。

が、ジワジワ来る。なんなんだこの感じ。

この緊急事態宣言下での閉店はやはり悔しいし、できる事ならまた皆で集まり、クロージングパーティをしたかった。

ここに書くことはごく個人的な事であり、本来は人様に読んでもらう様な事ではない。

それでも敢えて書き残すのは、タイムラインに流れる一過性のメッセージではなく、東京の片隅で稀有な存在感を放ったこの店の事と自分の記憶、そして店長の長澤さんの尽力をちゃんと記録に残しておきたいと思ったからである。

それほど三宿webと自分の人生の交錯は深く、この店の、大袈裟に言えば、東京の音楽史に残した足跡は計り知れず大きい。

51歳になって初めてわかる。なんでも長く続けるという事がどれほど尊い事か。  

長澤さんはよく冗談めかして東京インディD級クラブとか言っているが、実際はそんな事はない。

規模は多少違うが、マンチェスターにあったハシェンダ級の伝説のクラブだと思っている。日本のリトルハシェンダである。マジで。

少し個人的な事を書く。
Webの歴史と僕の音楽業界人生はほぼ重なる。

僕は1993年にフォーライフレコードというレコード会社に新卒で入社した。

入社当時オフィスは南青山7丁目、富士フィルム本社の六本木通りを挟んだ向かいのビルにあった。

翌年自社ビルが三宿に完成し、移転。南仏をイメージする5階建て、屋上にはジャグジーがあり地下にはライブハウス、1階にはオープンカフェという豪華なビルであった。

バブリーという言葉を使っても差し支えないと思う。当時の音楽業界はそれほど活気があり潤っていたのだ。

そのフォーライフから徒歩1分の三宿交差点に、1994年Webはオープンした。会社の近くにクラブができるなんてもう最高である。仕事終わりで通いまくった。

そのうちWebに通うのが仕事なのか遊びなのか分からなくなってきた。家も近所に引っ越した。以来三宿近辺を点々とし今でも下北沢に住んでいる。

土地と肌が合ったのだ。

当時の三宿はメディアで業界人の隠れ場的な扱いをされて一時的なブームになっていた。アーティストも芸能人もサッカー選手もよく三宿で飲んでいた。FRIDAYのカメラマンが張っていたほどだ。

フォーライフ前のお店の個室でサッカーを見て騒いでいたらいきなりドアが開き、カウンターで静かにワインをお召しになっていた大貫妙子さんに「あんたたちウルサイ!」と一喝された事もある。

今思い出してもあれは本当に怖かった笑。

Webも“芸能人がお忍びで訪れる店“としてアドマチック天国に取り上げられたりして連日盛況だった。

当時ジャニーズの超人気メンバーが住んでいたマンションが三宿にありWebの常連だと言う噂があったが、実際に見た事は1度も無い。

僕は「三宿」と言う語感から感じるどこか裏寂しい雰囲気が気に入っている。なので三宿がブーム、と言うのは何か違和感がある。

今では考えられないがWebでは毎日イベントがあって出演陣も豪華、いつ入ってもまず外す事はなかった。

当時はDJブースは1番奥側で、入ってすぐ右側、今のDJブースがある所に丸い円卓とソファが設置されたラウンジスペースがあった。

そこで女子と王様ゲームをやって、長澤さんに「クラブは王様ゲームをやる場所ではありません!」とこっぴどく怒られたのを覚えている。おっしゃる通りである。一体何考えていたんだか。あの頃いつ寝ていたんだろう?

少し戻るが、僕が音楽業界に入るキッカケは地元名古屋の小学生の時、YMOの武道館ライブをテレビで観た事である。

ヘッドフォンをしてシンセサイザーで東洋的なメロディーを奏でるその姿は小学生には衝撃的過ぎた。

どっぷりハマりすぐに彼らの音楽だけでは飽きたらなくなり、メンバーの出る雑誌やラジオのインタビューまでフォローするようになる。

それによると、どうやら東京という都市がYMO及びその周辺の音楽に多大な影響を与えているらしいことが朧げながらわかってくる。

霞町という所(現西麻布)には坂本龍一が哲学者と朝まで語るカフェバーという場所があるらしい。高橋幸宏は原宿で自分のブティックをやっている。細野晴臣は白金が地元。

ピテカントロプスという爆音でニューウェーブやヒップホップがかかって踊りまくる“クラブ“という所があり、六本木WAVEというレコード店には世界中の音楽が売ってるらしい。

これはすぐに東京に行かなくてはならない。行ってこの目でその雰囲気を味わいたい!まあ田舎者の典型である。

念願叶い大学で東京に出てくるのだが、実際の東京はイメージとかけ離れたものであった。バブルというやつが始まり出していたのである。

ワンレンボディコン、東京ラブストーリーがリアルタイムで放映されていた時代。僕は根が貧乏性のせいかどうにもこの雰囲気に馴染めなかった。

芝浦ゴールドはジュリアナにお株を奪われ、レッドシューズやピテカン、ツバキハウス、教授が浅田彰と朝まで語ったという西麻布シリンや広尾ピュルテといったクラブやバーは次々に閉店、80年代のニューアカデミズムブームは終わろうとしていた。

あの宝島やananで見た"ポストモダン東京"はどこに行ったのか?

僕は落胆し、病院のガードマンや闇ルートの靴屋の店員など怪しげなバイトで食いつないで夜は徘徊、一つのクラブに行き着いた。それが下北沢ZOO、後のSLITSである。

現在はキャバクラになっていて一回入ってみた事がある。女の子にここ前クラブだったの知ってる?と聞いてみたら、前きたオジサンもそんなこと言ってた〜でもこんな狭いところで踊れたんですか〜とあっさり返され、時の流れの無情を感じた笑。

下北沢ZOOには僕がかつて東京に求めていたスノッブな雰囲気が残っていた。自由でオープン、DJの音楽に対する理解の深さ、真摯さ。ファッショナブルな大人達。

何よりもあのボヘミアン感。

YMO「Firecracker」とプライマルスクリーム「LOADED」が同じ時間帯にかかっていた。そのミックスセンスたるや!(この辺のくだりは「LIFE AT SLITS」という本に詳しいので興味ある方は是非)


求めていたのはこれだ!味をしめて連夜のクラブ通いが始まる。

ZOO、YELLOW、ENDMAX、BLUE、inkstick、真空管、mix、CAVE、マニアックラブ、カルデサック、328、、、吉祥寺にも行ったな。もっとあった気がするが思い出せない。

終電で行って始発で帰る。1人でも行っていた。クラブに入るのはいつも勇気がいった。ナンパなどもってのほかである。大学生活はクラブ通いしかほぼ記憶にない。

三宿Webには、これらのクラブに漂っていた空気感、常に自由、中心には深度のある音楽、知的でスノッブな大人達がそれを思う存分に楽しんでいると言う、僕が少年期に憧れた“東京“の雰囲気がちゃんと受け継がれていたのだ。

それはTHE ROOM、CAVEを経てWebの店長になった長澤さんによるところが大きい。

だから居心地が良く長く通い続ける事ができたし、自分のアイデンティティを確認できる場でもあった。

僕はその後幸運にも、少年時代に憧れたアーティストと仕事をする機会に恵まれる(強運は自分の唯一と言っていい才能だと思う)。

当時フォーライフでレーベルを持っていた坂本龍一さんとその後仕8年間仕事させて貰う事になり、一度だけWebにもご一緒した事がある。

朝本さんのイベントだった。そのまま当時近くにあったZESTに流れ、坂本さんがワインを瓶から直で朝本さんの口に嬉しそうに流し込む光景を、今でもはっきりと覚えている。

レコーディングを終えたテイトウワさんがビョークを連れひょっこり顔出したこともあった。何年後かに小林武史さんと行った事もある。松任谷由実さんを連れて行けなかったのは残念。

僕はWebをどんなレジェンドにも自信を持ってお連れできる場所だと今でも思っている。

イベントも沢山やらせてもらった。最初のイベントは盟友・浅田祐介との「EVERYDAY SUNSHINE」。確か1995年?冒頭の王様ゲームのエピソードはこの頃の話である。

以降イベント名は変なのばっかり考えた。「貴婦人画報」「機種変しナイト」とか。アーティストの名前を出さずに変名でやるのも楽しかった。

自分たちも楽しめる場所が欲しかったのだ。Steady&Co.のリリパみたいなのもやった記憶がある。

イベント名がファンに広まるとすぐに変えたりして、今考えるとホントふざけていた。

僕のDJネーム”SASORI”は、プロのDJに混じってDJ初心者の僕が名前を並べるのはあまりに恐縮なので、超絶ダサイDJネームはないかと北九州の暴走族から拝借したものである。

リップスライムのSUが雑誌か何かのアンケートで、最もリラックスできる場所はどこですか?との質問に“WebのDJブース“と書いていたのを見て妙に納得した事を覚えている。その位ホームだった。

EASTENDのイベント「DA THIRSTY PARTY 」通称“ダサパ“は全員が40になるまで続いた。

↓2011年3月のフライヤー(撮影は長澤さん、原宿のヨギーさんシンデレラスタジオにて)  


一緒にテクノのイベントやっていたアーティストがある事情で直前で出演できなくなり、お店に大変な迷惑をかけてしまった事もあった。

当時付き合っていた女の子に平手打ちされたこともある(多分長澤さんは僕の女性遍歴ほとんど全てを知る人だと思う笑)。

Webには喜怒哀楽全部あった。遅れてきた青春と言ってもいい。いつもあの狭い階段を降りる時今日は一杯だけで挨拶したらすぐに帰ろうと思うのだが、それができた事は一度もない。皆無である。そんなお店他にあるだろうか?

ご本人には直接は照れ臭くて伝えたことはないが、実は僕は、長澤さんに人並みならぬシンパシーを勝手に感じている。ブログの更新を密かに楽しみにしている1人でもある。        

今でこそ音楽業界の片隅で27年間働かせてもらっているが、本当に正直に告白すると、元々大の人嫌いである。と言うか、人と接するのが苦痛で仕方ない。

持ち前の調子良さと口先で何とか乗り越えてきたが、実は打ち合わせや会議はストレスでしかないし、打ち上げや歓送迎会などもいまだに苦手である。

勢い酒で誤魔化すしかないのだが、今は酒も止めているので逃げ場もない。

stay homeでほとんど人に会わずにいても正直あまり辛くない。

直接顔を合わせず要件のみでテキパキ済ませられるZOOMなどは最高である。もっとこの手のツールが普及しないかと密かに願っているほどだ。

たまに寂しくなる時もあるが、元々映画と音楽、本があれば1人でも問題なく生きていけるオタク人間である。

一つの所に居続けるのが苦手な厄介なボヘミアン気質があり、今まで会社は5回変わり2度離婚している。

だから何かをずっと続けている人を見るとそれだけで尊敬する。今までもそしてこれからも、自分には絶対できない事だからだ。

では何故、わざわざ人と接する、他業種よりコミュニケーションストレスが高い音楽業界に居続けているのか??

27年間楽しいこともあったが辛い事もあった。今だから言えるが死をイメージした事もある。

その度に、何故自分に合わないこんな仕事をしているんだろうと自問自答をしてきた。人里離れた山野で木こりでもしていればよかったのではないか?

甘えてんじゃねーぞ。

もう1人の自分が言う。その繰り返しである。もちろん音楽が好きだから続いていると言うのは大きいが、それだけでもない気がする。

しかし、長澤さんとの出会いでそれが少しだけ紐解けた気がしているのだ。

ご本人もこれを読まれると思うので少しこっぱずかしいが、このタイミングで思い切って告白する。

25年くらい前の長澤さんとの初対面の時、どういう状況だったかは忘れたが、直感的に同類の匂いを感じたのを覚えている。

類は友を呼ぶという。この人も実は人嫌いなのではないか? 誤解かもだけど、、、、ひょっとして同類?そんな人に会ったのは初めてである。

誤解ないように言っておくが、長澤さんは真面目でめちゃ良い人である。

気遣いも素晴らしいし、何よりもあの一癖も二癖もある出演者陣とお客さんを長年扱ってきた、その忍耐力、精神力たるや称賛に値する。

しかし僕は時折長澤さんが見せる寂しげな表情、一瞬人を拒絶するような雰囲気に同じ人嫌いオーラを感じ取っていた。

人一倍繊細で傷付きやすいはずなのに、何故わざわざ矛盾する方向、人と接する仕事に進んだのか?

そんなの大きなお世話で間違っていたら失礼な話だが、自分と同じ面倒臭い命題を抱えているのではないかと勝手に想像していた。

長澤さんと話すときはそんなシンパシーを密かに持っていたので楽だった。

人嫌いなのに何故クラブ店長なんてやっているのだろう?

自分を重ね合わせる様な疑問を長澤さんに対して長年持っていたが、ここにきて限りなく答えに近い言葉を長澤さんのFBで読んだ。

曰く、元々人嫌いでそのままだと性格的にヤバい人間になってしまうので、神様が人と接する事で少しでも真っ当な人生を送れるように、クラブ店長にしてくれたのだろう云々。、、、

間違いない。

自分ももしこの仕事していなかったら病み上げて三島由紀夫あたりを耽読し、日本刀を振りかざして交番に突撃し立て篭もったかも知れない。あるいは引きこもりになった挙句世をひねて、誘拐事件位引き起こしていたかもしれない。

例え気休めでもそう思うと少し気持ちが楽になった。本当の事だ。


最近レジェンドアーティストの訃報をよく目にする。その都度タイムラインには死を惜しむ声が溢れる。僕は捻くれ者なのでいつも思う。

「そんなに悲しむなら、なんで生前もっとライブに行ったり音源聴いたりしてあげなかったのか?」

これは僕自身に対しても言っている。最近Webに顔出すことはめっきり減っていた。周年で顔見せる程度である。

世代も変わり若い子たちがイベントを盛り上げる様になり、老害になっても申し訳ないというのは単なる言い訳で、単にオッサンになり深夜のクラブ活動がしんどくなっていただけだ。

もっと行っておけばよかったと悔やまれるがもう遅い。


日本の音楽業界のアフターコロナは非常に厳しいものになるだろう。緊急事態宣言が落ち着いても恐らくもう元には戻らない。それは誰もがうっすら感じている事だ。

先送りしていた問題がコロナきっかけで次々と露呈している(エンタメに限らないが)。

本題から少し逸れるが、実は海外の音楽産業はレコードビジネスに限って言えば、このコロナ禍でも成長している。

市場がサブスクに完全移行していて、stayhomeで家で皆聴きまくっているからだ。

日本は7割が未だCD、そのうち接触イベントでの複数枚購入がかなりの割合を占める。そんな国は世界で唯一である。

いずれ日本もサブスク市場に完全移行するだろう。しかしサブスクはCDに比べ利益率が良くないので、音楽産業に関わるスタッフは必然的に減らざるを得ない。

今までは雇用を守るための延命だったとも言えるが、コロナで接触イベントが当分できない今、大きな意識改革を余儀なくされるのは必然だろう。

結果、国民的ヒットは益々出にくくなり、主軸がより個人のクリエイトに本質的に移っていくのは間違いない。

アメリカ型右肩上がり資本主義、拡大成長戦略一本やりの時代は終わり、どう健やかにサスティナブルにモノを作っていくかが次の課題になるはずだ。

悲観論を言っているのではない。本当のネガティブとは根拠のない希望的観測によって思考停止に入る事である。

日々考え抜かねば生き残れない。

話を戻そう。

これは他のライブハウスやクラブにも言える事だが、Webの様な場所はこれから個人にフォーカスが絞られる中でもっと重要な意味を持つはずなのに、そういう場所から順に無くなっていく。

悔しいし残念の一言だ。

それでも長澤さんはクラウドファンディングなどの延命を選ばなかった。それはTwitterでも言及されている。閉店を告知するブログからもどこか覚悟を決めて自分を抑制しているニュアンスが感じられる。

偉そうに申し訳ないが、実に長澤さんらしいと思う。

外部がとやかくいうことでもないだろう。潔く次に進み、それぞれができることをやるしかない。

でも同じ花は2度と咲かない。


Webの思い出の曲を1曲あげるとしたらこの曲。

この曲がヘビロテされていたわけではない。僕自身もDJする時は必ず用意していたが実際にかけた事はあまりない。が、Webといえばこの曲がいつも脳内自動再生される。

子供心を持つ大人の刹那。この高揚感。

僕にとってのWebとは、端的に言えばこの曲が表現しようとしている世界観だ。

エレファントラブのライブDJを若きDJ FUMIYAがつとめていたと言うエピソードもエモい。

、、、、、まだまだ書きたいことは沢山あるがキリがない。


最後にWebに行ったことのない人でも雰囲気が少しでも伝わる様に、拙い僕のMIXを貼っておきます。

当時「ダサパ」でかけたミックスを編集、イベントのプロモ用にお客さんに配ったものです(背景写真は愛犬みみ)


長文かつ乱筆乱文、ここまで読んでくれた方ありがとうございます。お疲れ様でした。三宿Webという素晴らしい場所が忘れられて欲しくないし、僕自身の心の整理の為にも書きました。

いずれ三宿Webの歴史は一冊の本になるでしょう。その時を楽しみにしています。

改めて長澤さん、26年間楽しい空間と時間を提供してくれて本当にありがとうございました。

会った事ないけど、ビルのオーナーさんにも。

感謝&尊敬。






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