小学校⑥

ファミリーコンピュータが昭和58年に発売された。小学校のクラスでは、人気があるソフトをいち早く手に入れる人が、クラスの中の頂きに上がる。ソフトを買うには、ハードを買わないといけない。我が家では、一切ゲーム機を購入しない家庭だったので、その後高校卒業するまでゲーム機を買うことがなかった。初めて買ったゲーム機がPlayStationだった。バイトでためたお金を握りしめて、グランツーリスモを買った。

当時、ハードがなかった我が家には、必然的にファミコンを持っている家にゲームをやりにいく。家庭にファミコンを持っている人は対等な関係性を保つことができる。しかし、ハードがない私は主従関係になってしまう。対等な関係をもっているファミコン保持者は、お互いに持っているソフトを貸し借りして、お互いにゲームの印象や攻略法などを教室で話題となり、盛り上がる。ハードがない私は、もちろんその中に入る事ができなかった。その当時、ほとんどの男子が家に何らかの家庭用ゲーム機を持っていた。ファミコンが圧倒的なシェアなのだが、2台目は違うメーカーのハードを持っている強者もいた。

基本的に小学生の社会では、同調圧力の中で過ごさなければいけない。その中からはじかれると、その和の中に入るのは困難になる。その経験があるかないかは、人としての存在の有無を判断する材料だった。

もちろん、いつまでもその和の外にいることは辛い出来事である。そのため必死に両親に訴えるが、「みんながもっている」という理由は、購入不可の烙印を押される。どんな苦労をしているかを訴えても、そんなことには興味がないようで、両親がイメージする子供であることを常に要求された。家庭ではそれが平和に過ごせる方法である。しかし、子供の社会ではその社会からはじかれる大きな理由となる。

スーパーマリオやドラゴンクエストなどは、やらせてもらったことはあるが、クリアしたことがない。攻略本を購入してもゲームオーバーになってします。

今は、eスポーツという競技ができ、海外の大会では高額な優勝賞金が用意されて、プロとして活躍する人もいる。もう少し早くそういう時代がきていれば、きっと違うゲーム体験ができたかもしれない。


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