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歌詞統一祭2023冬 ゆうまぐれ作曲譚

歌詞統一祭がまもなく終わりますね。わたしも今回ようやく参加できました。

「同じ歌詞を他の人がどんなふうに曲にするか」なんて、なかなか聴けないので、すごく興味深く巡回しました。主催のエタさんとcataclecoさんに感謝です。

もしかして、ほかの方も「自分以外の人はどんなふうに曲を作っているのか」に関心があるかも、と思い立ちました。それで「わたしは今回、こんなふうに曲をつけました」という記事を。

50歳のよわよわPの作曲法なんて興味ないかもですが、自分のメモがわりも兼ねて記事にまとめます(短くまとめるのが苦手で、今回も全部で約5,300字あります)。すみません💦

もし無理でなければ3分弱の短い曲ですので、そちらもご参照ください。
ゆうまぐれ 作詞:catacleco 作曲:Dancing Cloud

歌詞統一祭についてかんたんに

検索などでこの記事をご覧になる方の中には、そもそも「歌詞統一祭」をご存知ない方もいらっしゃるかも知れません。

ざっくり説明しますね。

ネット上で、おもにボーカロイドなどの「パソコンで歌声を合成するソフト」を使って、楽曲=歌を作る人たちを「ボカロP」と言います。その、ボカロPさんたちにたくさんの歌詞を提供している、この界隈でとても有名で人気のある作詞家さんたちがいらっしゃいます。

そうした作詞家さんの代表格である、エタさんcatacleco(かたくりこ)さんが主催して行っているイベントが「歌詞統一祭」です。

その名のとおり「歌詞はわたしたち主催者が準備するので、そこにみんなで曲をつけてわちゃわちゃ楽しみませんか」というイベントです。

通常、同じ歌詞にたくさんの人が曲を自由につけて発表する機会は少ないこともあり、回を重ねるごとに人気イベントへと成長しています。

2023年1月で4回目。そろそろ「この界隈の定番イベント」と言っていいかもですね。

このイベントの楽しみー曲を作る人目線で

先ほど書いたように「違う作曲家が同じ歌詞に曲をつけてお互いに公開する」ことって、あんまりありません。

これによって「同じ歌詞でも、解釈やアプローチの違いで、こんなに多彩なメロディーや世界観を構築できるんだよ」ということに改めて気付かされます。

すごく刺激になりますし、勉強にもなるわけですね。

わたし自身は、そういう目(耳?)で色々な作品に触れて、自分のアプローチとの違いや、お互いのいいところを発見できると思って、今回参加させていただきました。

今回わたしが選んだ曲と選んだ理由

今回のお題は「時間」で、そのテーマに合わせて四つの歌詞が公開されました。

その中のひとつ、cataclecoさんの「ゆうまぐれ」という歌詞に、曲をつけることにしました。

この曲を選んだ理由に、わたしの作曲方法が関係しています。

歌を作る場合、詩もしくは詞が先にあって、メロディを後でつけるやり方があります。そのまま「詞先」と呼んだりします。今回はこのやり方ですね。

逆にメロディが先にあって、メロディに合わせて歌詞を作る方法もあります。おそらく、現在世の中に流れている「プロの曲」のほとんどは、こっちになっているんじゃないかと思います。

最近では「伴奏」の部分(これを「トラック」と呼びます)を先に作り、そこからメロディラインと歌詞を「乗せる」作り方も浸透しています。若いクリエイターさんは、この方法に馴染んでいる方が多いかもですね。

話を戻しますが「詞先」場合、わたしは歌詞を「読む」ことからはじめます。

詩もしくは詞を小声で読みます。詞の意味や、その情景から、読むスピードやトーンを調整して読んでいくと、なんとなく「気持ちいい読み方」に行き当たります。

みなさんもそうだと思うんですが、話したり読んだりする時、言葉って音が上下しますよね。音の高低(声の高さ)、強弱、緩急(スピードの変化)をまとめて「抑揚(よくよう)」と言います。この抑揚に合わせてメロディをつけています。

もう少し補足すると、読んでいる抑揚に合わせて、メロディが自然に「乗る」のを待つ感じです。すべての部分を読んでいる感じに近づけるのは無理ですが、部分的に「読みにメロディが乗ってくる感じ」があります。そこに合わせて、前後のメロディを作ります。

今回、ゆうまぐれを選んだのは、はじめて歌詞を読んだとき、冒頭の「終わるような静けさに」が、いきなりメロディになったからです。

これは、すごくしっくりくるな。わたしの言葉や音の感覚と、歌詞の音や世界観が、自然に寄り添ってるんじゃないかな、と。それで、ゆうまぐれに曲をつけることにしました。

「ゆうまぐれ」をざっくり眺めるー作曲前の軽い分析結果

もちろん、声に出して読む前に、ざっと歌詞を眺めます。「目で読みこむ」と言った方がいいですね。

声に出す前に「この詞はどういう世界観を描いているのか」ということを、自分なりにざっくりつかむ時間です。

歌を作りはじめたのは、小学5年生のころからで、きっかけは家にあった「学研の付録」でした。兄が買った雑誌の付録で、小学生に読んでもらいたいステキな詩を集めたポケット版の本が、押し入れに新品の状態で眠っていました。

オレンジ色に緑の文字だったと思います。後日、引っ越しの際、しれっと捨てられていてショックを受けた記憶があります。もし、学研の方からプレゼントされたら、コサックダンスして喜びます(おそらく発行は1980年ごろです)。

その詩を眺めて、気に入った詩を小声で読んでいたら、節がつきメロディがついた。これが歌を作りはじめたきっかけです。

いまでも同じことをしているわけですね。

で、ゆうまぐれ。歌詞を眺めて、次のようなことを感じました。

古語や古風な表現の多用:

「ゆうまぐれ」という表現自体、ちょっと古風で雰囲気ありますね。作者のcataclecoさんは短歌も詠まれるので、古語といまの言葉を、上手に行き来されます。これは、この詞の特徴として印象に残りました。

言葉遊び:

言葉に二重の意味を持たせるなどして、ちょっとした言葉遊びを多用していると感じました。

二重の意味を持たせる(掛け言葉、ダブルミーニング)系だと、「黄昏れては誰彼と〜」とか。黄昏(たそがれ)の語源は、陽が沈んできて、人の姿が暗がりに溶け込む頃って、「そこにいるのは誰ですか=誰そ彼(たそ かれ)」っていう時間帯だよねーということ。そこをしれっと歌詞に盛り込んでいます。

二重の意味ということでは「茜にまた馳せるから焦がれてく」のところ。空が茜色に「焦がれる」というのと、大切な誰かに「胸が焦がれる」ということ、両方表しているんだろうなと思いました。

言葉遊びを含むことから、ことばのリズムが生まれ、歌詞がどっぷり悲しみに沈む感じではないなと感じました。そこで「メロディを悲しくしすぎない」ということは意識しました。

想像の余地=余白残した描写:

この歌詞では、語り手はここにひとりで佇んでいて、想いに耽っている感じですね。では「誰のことを想っているのか」というと、はっきりとは示されていません。

ヒントとしては「答える人はもう空の果て」なので、ここにはいない。でも、すごく遠くにいるのか、心の距離が離れた(お別れした)のか、あるいは死別なのかは、聴き手の想像に任されています。なので、いろんな風景が心に浮かぶというわけです。

そういう感じをイメージして、小声で読んだので、するっとメロディが出てきたんでしょうね。

わたしの勝手な解釈:

わたしは「死別した大切な誰かを想う歌」という設定にしました。もう、ここにはいない誰かが、黄昏どきという、行き交う人がはっきりわからなくなる時間に、そばにいる錯覚を覚える。

触れては離れ、離れては触れる。つまり、その人の実体は存在しないので触れられないんだけど、でも今日のこの時間は、確実にあなたの気配を身近に感じています。そういう設定です。これはMVの後半で「光」という形で表現しました。

すでに亡くなっている大切な人。その「気配」を光で表現しました。

メロディとアレンジの工夫など

基本的には「ことばにも、音にも、無理をさせない」という考えで曲を作っています。今回は特に「ことば(歌詞)が行きたい方に音を置いて、邪魔しない」というイメージです。

アレンジに関しては、わたしの引き出しが多くないので、できることは限られています。その中でも考えたのは、やはり「歌詞の語り手の自然な気持ちの変化を、そのまま映し出すこと」でした。

具体的に解説します。

冒頭の部分:

最初のメロディは小声で読んだ、朗読の調子そのままのメロディです。主人公が淡々と、自分の状況や風景を語るという感じで、シンプルにピアノだけ、単純なコードを鳴らしています。ここは歌というより「語り」というイメージです。

展開の部分:

「どこへと尋ねてもあてどなく」のところ。そばにいない「大切な人」を思いながら「どこへ?」と尋ねる。思わず、口から漏れたんでしょうか。心の小さなゆらめきを、ピアノの高音アルペジオと、ストリングスのピッチカートで表しました。

サビへの繋ぎ:

大切な誰かが「空の果て」という部分は、感情の盛り上がりなので、ここでぐっと力を入れています。展開の部分との対比で、ここはストリングスのロングトーン(サスティン)を使い、ピアノもアルペジオの音量を増して盛り上げています。

最初のサビ:

サビの曲調は軽めです。語呂合わせ的な表現(触れれば離れて、離れては触れる)も使われているので、「どっぷりと悲しみに浸りすぎない」ようにもしています。なので伴奏の主役は、さわやかなエレキギターのアルペジオが担います。

「触れては離れて、離れては触れる」の部分。声に出して読んでみてください。たぶん、メロディのリズムが「読み」から来ているのを実感できると思います。

間奏:

サビの歌詞が悲しみを押し出していないものの、語り手の胸には、きっとことばにできない、いろんな思いが行き交っていると思うんですね。それで、この間奏はバロック調の、ちょっと厳し目の感じ(イメージはヴィヴァルディの組曲「四季」のなかの冬)で、悲しみを追加した感じです。

落ちサビ:

歌いはじめから、少し陽が落ちて、黄昏から夕闇のギリの時間帯。ここで、行き交う人からは自分の表情が見えなくなり、心が素直になる、というイメージです。本当にひとりで、自分の素直な気持ちを吐露する。なので伴奏は最小限です。

転調サビ:

万感の思いを込めて、自分の気持ちを歌い上げます。これは「空の果て」にいる誰かへのメッセージ。強く歌い上げます。

ここで「黄昏=誰そ彼(あなたは誰?)」に戻ります。すでに亡くなっている誰かの気配に対して「あなたは……」という解釈です。色や匂いなどの刺激で、亡くなった方を強く思い出すことってありますよね。あれが、いま、語り手に訪れているというイメージです。

この部分のストリングスは、前半のサビのストリングスとまったく同じにしたような。アレンジが苦手なのと、単純に音量を大きくすると印象が変わるので。最初の時は後ろに薄めに鳴らすことで「背景や情景」のストリングス。ここでは強めに鳴らすことで「主人公の心情描写」みたいな、ちょっと主張する感じです。ええ、ただの自己満足ですが、それがなにか?

結尾:

「二人の影が混ざり合う」と同時に、実はその場所の影は「ひとつしか存在しない(そこには語り手ひとりしかいない)」という感じで、静かに曲を結びました。

亡くなった人が帰ってくることはないので、あくまでも語り手の記憶や感情が「あの人はここに、触れるほど近くにいる」と感じさせた。その感情は現実だけれども、その人が存在しないのも事実。そういう解釈です。

ここまで解説を聞いたら、曲を聴きたくなりましたね。一応リンクを貼っておきます。

結びに:正しいかどうかわからないけれど「ふたつの影は確かに混じり合った気がする」

作詞をされたcataclecoさんのイメージ通りではないでしょうし、正しいかどうかで言えば、間違いがいっぱいあると思うんですね。

でも、たぶんcataclecoさんたちは「そういう余白」をあえて歌詞に残したり作ったりしつつ、わたしたちみんなが想像力を働かせて、ひとりひとりの「ゆうまぐれ」を描くことを願っているんじゃないかと。

そういう意味では、ゆうまぐれの歌詞にある「混ざり合うふたつの影」のように、わたしたち曲を作る人と、作詞のcataclecoさんの影(世界観)は混じり合ったと思いますし、作り手と聞き手の世界観も、混ざり合って「ひとつ」になると思っています。

人さまが作った歌詞と、自分の曲を、長々解説するなんて野暮ですね。

でも、他の人たちの作品と比較することで、「自分はどういう人間で、どんなアプローチで曲を作っているのか」を、改めて考えるきっかけになりました。

最後になりましたが、素晴らしい歌詞を提供してくださったcataclecoさん、主催のエタさん、参加しているすべての方、聴いてくださったすべての方に、心からの感謝をお伝えします。

みなさんありがとうございました。

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