小森先生の下の名前


このnoteはねー、Twitterに「書きましたよ!」ってことも言わないし、古美門ってよりかは「私」のことだからね、こっそり更新しちゃうんだー。ふふ。

小森先生(仮名)って書いて、誰の何のことだか分かる人いるのかな。
前に「小説を書くということ」っていう記事に書いた、私の恩師。
私に文学を教えてくれた国語の先生。

1年足らずで退職してしまったけれど、明らかに人間として奥行きが深くて、不思議で、大好きだった。

ずっと小森先生に会いたかった。
会って何を話すかなんてことは考えられてないから、本当に会えたとしてもどうするんだろうって思う。

でも、このまま会わずにいたら、永遠と私の中で小森先生に会いたいなという気持ちのまま、私一人の中で伝説になっちゃうと思った。

きっと私がこの体で命終える時、思い出すと思う。
自分の死の瞬間すら、ほんの一瞬に「小森先生に会えなかったな」って。

だから、ずっと怖かったんだけど、母校に電話をかけた。
まずは小森先生の下の名前を聞くために。

たった2回のコール音の間に
小森先生の名前を言って分かってくれるかな、とか、
もう情報がなかったりするのかな、とか考えた。
すぐに電話は繋がった。

「◯◯学校卒業生15期(仮)の古美門です。既に退職してしまった先生のお名前を確認したくお電話させていただきました」

こういう電話って他にあるのかなぁ。
ネットで「退職した先生に会いたい」とかで母校にこうして連絡をしてみる、って手段が乗ってたけど、いるのかな。

「退職した先生のお名前ですか」
「はい。小森先生っていうんですけども…」
「あぁ! 小森先生」

伝わった! 何年も前に退職した先生の名前って、こんなパッと伝わるものなんだ!

ただ、今はどうしているかとかはさすがに分からないらしくて、でも電話口の先生が下の名前を調べてみる、と言ってくれた。
10分後にもう一度かけてみてくれますか? と言われたから、他にやるべき作業をその間にこなした。30分経ってしまった。

2回のコールでまた電話が繋がる。

「はい。〇〇学校の佐藤(仮名)です」
「先ほどご連絡させていただいた古美門です。〇〇先生いらっしゃいますか?」
「あぁ! 古美門さん。小森先生の」

さっきとは違う男性の先生が電話に出た。
話がスムーズに進むかと思ってさっきの先生にかわってもらおうとしたけど、なんだか男性の先生が電話口で少し砕けた口調になった。

「15期(仮)の佐藤です。お久しぶり!」
「……?」

「え、佐藤……あれ? 生徒会長の?」
「そうそう!」

なんと、電話に出たのは当時生徒会長だったクラスメイトの佐藤くんだった。母校の先生になっていた。
国語の先生をやっているらしい。びっくりした。

「〇〇先生から引き継いでたんだけど懐かしい名前があってびっくりしたよ。古美門さんも小森先生も」
「えぇ、先生になって〇〇学校にいるんだ! 知らなかった!」

佐藤くんは当時担任の先生だった人が今は非常勤講師になっていたり、漢文の先生はずっと先生を続けていることとかを教えてくれた。

在学当時、そこまで話したことのなかった生徒会長が先生になっていて、私が探している小森先生の名前の確認を手伝ってくれている。

不思議だった。
状況も、問い合わせた相手と急に口調が砕ける感覚も、小森先生が滞りなく滑らかに伝わることも。

ずっと波紋を立てるのが怖くて眺めていた湖に、やっと小石を放り込んだ。余波が思ったよりも大きくて、柔らかかった。

「そうだ、小森先生の下の名前だよね」

佐藤くんが読み上げる。

「えっとね、小森先生の名前が、ちひろ(仮名)さんで……」

ここでは仮名としてちひろさんと書くけど、
一度も呼んだことのないはずの下の名前が、記憶と一致していた。
"三文字。確か彼女らしい名前だった。"
そのうっすらとした記憶の中にあった名前が、あっていた。

生徒会長は漢字も教えてくれた。
電話をスピーカーにして、メモアプリに名前を打ち込んだ。


小森先生の名前が分かった。
小森ちひろ先生。

佐藤くんとは「学校に遊びに来てよ」とか「小森先生にあったら報告するね」とかを話した。ずっと不思議だった。


本名が分かったところで、次はどうするのか。
でも、いったん、分かった。小森先生の名前。


電話を終えた後、外を歩いた。
小森先生のことを考えると時折、泣きたくなるほど会いたくなる時があった。

どうしてだろう?
そんなに小森先生は私の核な部分にいるのかな? なんでだろう。

エスカレーターを下る。
目の前には東京タワーがあって、その赤を鉄筋コンクリートの枠が四角く囲っていた。

額縁に飾られた東京タワーを見て、あぁそうか、と思った。

私は表現する時、何かと何かを対立させる構造で書く。
四角に意味を持たせるなら、対立する意味は丸に示す。

そうだった。
これを教えてくれたのが小森先生だった。


大学受験の時。
第一志望の受験項目に「1冊の本を受験日までに読み、受験当日に記述問題に答えること」というものがあった。


私はその本を何十回と読み潰して、ダイソーのノートに解釈を書き倒した。
毎週そのノートを小森先生に提出した。小森先生がいなくなってしまうその週まで。

一回読んだだけでは、その本が何を言っているのか分からなかった。ハッピーエンドなのかバッドエンドなのかすら、私には分からなかった。

でも、放課後に小森先生が私のノートへ赤を入れるたび、私の中で物語の解像度があがっていった。

何のことか分からないと思うけど書く。
作者が「丸みを帯びているもの」を書く時、そこには必ず「母」が描かれていた。
作者が「機械的な動き」を書く時、そこには必ず「父」が描かれていた。

それを結びつけて対立させて物語を整理すると、何のこっちゃ分からなかった母への嫌悪感を書いたように見えていた物語が「母が死から息子を守る物語」に変化した。直接的に表現されていないけれど、構造を整理するとそう語られていた。びっくりした。

類似した単語を見つけては本にマークをした。やがて本はカラフルになっていって、ノートはボロボロになっていった。

「ここまでやったら大丈夫なんじゃないか」
小森先生はいなくなってしまう前にそう言った。
小森先生がそう言う頃には私の中にこの構造は染み付いていて、その後に書く小説は好んでこの構造で書くことにしていた。


今の私にも引き続いてる物の見方を教えてくれた人だからだ。
だから会えるかもしれないのも、もう会えないかもしれないのも怖いんだ。


でも、小森先生の下の名前を知りたかったってことは、やっぱり会いたいんだと思う。


「会えなかったらどうしよう」には、小森先生がもうこの世にいなかったらどうしよう、の部分しか含まれていないのかも知れない。

もう覚えていない生徒が大人になって会いたいと言ったところで小森先生の気が進まないとしたら、それでいい。



会えるかなぁ、会えないかなぁ。




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