私がコロナ禍で望んだのは平和でした

私はこのコロナ禍のなか、幸運なことにすばらしいパートナーと出会い、結婚しました。ですが、私の実家には未だにあいさつに行くことはできていません。

実家は田舎であること、実家は自営業を営んでいることもあり「身内から感染者がでたら店を畳まないといけないから、まだ帰れないね」と言われたためです。

その後もいろいろありました。「父が倒れて救急車で運ばれた」と母が泣きながら電話してきても帰れません。祖父や、祖母の妹さんが亡くなっても帰れません。

そんななかで願うのはひたすらに、コロナが早く落ち着き、閉塞感もなく他者とはばかることなく手をつなぎ笑いあえる平和な世の中になってほしい、ということです。

悲しい気持ちになるのは、このような状況でも「競技!競技!」と推進する方々が目に入ってくることです。オリンピックで競い合うこと、競技会でダンスを踊ること、オンライン競技会というものをがんばって立ち上げて開催すること、それはいま必要なことなのだろうか、と。競い合うのは社会が安定して余裕があるからできることなのではないかと思います。

「みんながハッピー」と「なんらかの賞をとった人がハッピー」でどちらが幸福の総量が多いか考えてみたときに、一人または数人で全員分の幸福を感じることはできないので、前者のほうがあきらかに幸福の総量が多くなります。そして、後者の方は幸福の総量を減らす活動だと捉えることができます。

この考え方のもとでは競技は幸福の削り合いと考えることができるので、私はこの閉塞感に満ちたコロナ禍のなかでは幸福をいかに増やすかが重要だと思い、それに逆行している競技の推進をしている人たちをみてとても悲しい気持ちになります。
閉塞感のある状況のなかで幸福を削り合うと、とてもひどいことが起こります。鬱になりやすい状況ですし、自殺者も増えるかもしれません。

社交ダンスやアルゼンチンタンゴなど、ペアダンス界隈の全国の教室では感染対策をできる限りやりながらも、小規模でもレッスンを続けてくれていますね。
このコロナ禍のなかでは友人や同僚とも気軽に会うことができませんが、だれかと手をつなぐこと、だれかと同じ時間を共有できること、それらがかけがえのないものだと改めて実感しています。

コロナ禍はこれから、まだしばらく続くでしょう。ワクチンを接種してすぐ日常が戻ってくるわけではありません、これからも閉塞感ある生活は長く続きます。
そんななかで大事なのは、競い合うことではなく、一人ひとりが、もしくはだれかと協力して幸福を感じられる機会を模索していくことなのだと思います。

これは競技自体を否定するものではありません。閉塞感のあるいまの状況での競技推進をみて私はとても悲しい気持ちになる、という個人の感情です。
批判的な記事になってしまい、この記事で閉塞感を大きくしてしまう可能性があることは理解していますが、いまの気持ちを我慢し続けることも心によくないので、吐き出すために記事にしました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?