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旧正月とシャワーキャップ

旧正月がやってくる。
今年は2月10日が旧暦の元日で、前日から帰郷する人々の様子がニュースで流れ、ソウル市内は空っぽになる。
 
韓国では毎年、元日がかわる。1月だったり2月だったり。陽暦の年を越してしばらくすると旧正月の贈り物が登場し、本格的な年越しの雰囲気がうっすらと漂ってくる。
 
「名節や祭祀の準備は゛嫁゛が全部するから、本当に憂鬱で悪夢。覚悟したほうがいいわ」
韓国に引っ越しをする前、韓国人の友人数人からさかんにこう言われた。ソウルに移り住んだのは2004年。ちょうど、『冬のソナタ』が大ヒットとして、ヨン様ブームが巻き起きた春だった。
 
韓国の代表的な名節は、旧盆の「秋夕」そして、旧正月だ。今でこそ、名節の行事をせずに旅行に行く人も増えたが、移り住んだ頃の韓国ではまだ名節を家族で過ごすことは当然といった雰囲気だった。家によっては先祖を供養する祭祀を毎月行うところもあって、仕事をしている友人らも、やりくりしながらこなしていたが、なかには「やってられない」と祭祀、名節一切の行事に関わらないと決めた知り合いがいた。結婚生活は維持しても婚家との関係を断ち切った。この話を聞いたときはそんなに大変なのかとおののいたが、実際にやってみる前は、「2、3日我慢すればいいだけなんだから、なんとかなる」と高をくくっていた。
 
そうして初めて迎えた秋夕(旧盆)。
「初めてで分からないだろうから今回は材料は買ってきたから。まずは魚を乾燥しなきゃいけないから、うちに来なさい」
秋夕の数日前、義母からこんな電話がかかってきた。魚を料理するじゃなくて乾燥させる?  
「魚は乾燥させないと焼いた時に形が崩れてみっともないから、きっちりかわかさないとだめなんだよ」
後日義母の家に行くと、鯛やらキンキやらイシモチなどが合わせて20尾ほどが絶妙な間隔で大きなざるに並べられていた。
 
義父と義母の故郷はともに釜山だ。供物にこれだけの魚を用意するのは港町・釜山特有らしい。
窓際にもたれかけられたざるはずれ落ちないようストッパーに分厚い本が置かれていた。並べられた魚には扇風機2台がフル稼働で風を送っている。ようは干物もどきをつくるわけで、他の供物の準備をしながら、「ひっくり返してきて」という義母から指令がでるたびに私が魚を返した。
 
秋夕の一日前、干物もどきとなった魚を焼く。当然グリルだろう、そう思いグリルの前に立つと、義母は両手に浴室用の小さなイスを持っている。「匂いが部屋に広がるからベランダで焼くからね」と言う。
 
「服に匂いがつくからこれに着替えて」。
南大門で買ってきたという派手な花柄の、ぺっらぺらのサテンのズボンと大きなシャツを手渡され、着替えて猫の額のようなベランダに行くと、新聞紙が敷かれた上にコンロがぽつんと置かれていた。コンロの上には大きなフライパン。コンロを挟んであちらとこちら側には浴室用のイスが置かれていた。ベランタといっても寒さの厳しい韓国では外に開放されているわけではなく、窓で覆われていて、窓を開けていてもとにかく暑い。
 
「髪の毛にも匂いがつくからね、はい、これかぶって」
差し出されたのはシャワーキャップだった。義母は慣れた手つきで勢いよくシャワーキャップのゴムをびゅーんと伸ばして頭にかぶり、イスに座って、魚をフライパンに並べ始めた。
 
コンロひとつに魚20尾はどう考えても効率が悪い。焼いても焼いても終わらない。
「焦げないように、形を崩さないように」と畳みかけられながら、2時間以上が過ぎて、ようやく全部を焼き終えた。
後片付けも終えると、腰は痛いわ、暑いわでぐったりだった。「着替えて何か食べに行こう」と義母が言う。気を使ってくれているのだなあと思いながらも、一刻も早く家にかえって足を伸ばしたかった。
 
「さてお化粧も直して」という義母の顔を見ると、額にくっきり一本の線が弧を描いている。シャワーキャップのゴムの跡だ。思わず吹き出して伝えると、義母も鏡を見て大笑い。「ゴムが強かったかね」そう言いながら、「ともこもだよ」と笑っている。急いで鏡を見るとシャワーキャップのゴムの跡が額にくっきりついていた。
「次からはゆるめのキャップにしないとだめだね」
 そんなことを言っていた義母だったが、結局ゴムの跡は毎年くっきりついた。
 
初めての秋夕の後、私は疲れから珍しく寝込んでしまった。供物を用意するのも、集まった親戚らを応対するのも、ともかくこんんなしんどいものがあるのかと思うくらい、ぐったりだった。
 
そんな名節行事も義母が倒れてからはしなくなった。
義母は80歳の時に受けた膝の手術から体調を崩し、療養院に10年間、入院した。義母が90歳で亡くなると、名節は行わず、一年に一度、義母の命日に行う祭祀だけとなった。
 
 韓国ではコロナから、名節に親戚一同が集まることは格段にぐんと減った。今の韓国では旧正月や秋夕よりも海外や国内旅行に出かける人も多く、今年は国内のホテルでゆっくり楽しむ「ホカンス」(ホテルとバカンスを合わせた言葉)に人気が集まっているそうだ。
 儒教の国と思われがちな韓国だけれど、今の時代に合わない昔ながらの慣習はどんどん忘れ去られているのが現実だ。名節や祭祀の行事もそのうちなくなって、「バーチャル名節」「バーチャル祭祀」なんていうのがでてくるかもしれないなあとふと思う。
 

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