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「精神0」 

 「精神0」を公開当日に鑑賞することは、私にとってここ最近一番のビッグイベントだった。しばしば仮設の映画館を訪れては、「ザ・ビッグハウス」を観た映画館にしようか、それとも「港町」を観たこっちの映画館にしようか、初めて想田監督の映画を観た映画館はどこだったかな、と計画を練っていた。

 ところが公開当日、私はかつてないほどの混乱に襲われていて、映画を観るどころではなかった。脈絡もなく次々と記憶の扉が開き、身体は勝手に震えだし、止まったはずの涙がまた流れていて、外界のすべてのことに対して無感覚で凍り付いているかと思えば、自分のものとも思えないほどの嵐がその隣にあった。それなのに、それらすべてを冷静に観察している意識もあり、まさに今こうして記しているような文章が絶えず脳内に流れていた。およそ自我というものを得てから、こんなに自分がコントロールできない事態に陥った経験はなく、映画を鑑賞するはずだった「私」はバラバラになって、どこにも見当たらなかった。


 どうしてそんなことになったかというと、先生と急にお別れしないといけなくなったからだった。私はいつも先生と呼んでいたが、先生はそれを職業としていたわけではなく、漱石の「こころ」のように、私の友人たちが先生と呼びだしたのだった。私は明らかにその分野の適性に欠け劣等生だったが、友人たちが各地に散っていっても先生の近くに残ったので、結局私だけが先生の元に通い続けた。新しい仲間が増えた時もあったし、先生とふたりきりだった時もあった。先生は私の親より随分年配だったけれど、私を早くに亡くした子どもの代わりだとおっしゃって、自分はこの土地での私の親だと繰り返した。いつからか、先生は私が訪れる度にこの時間が一番の贅沢だと口にするようになり、私はその度に相槌を打ったが、実際は私にとってはそこにあるのが当たり前の日常だった。


 訃報の連絡を受けた時、私は自宅で仕事に追われていた。新型コロナウイルスによって生活が一変してしまっていた。計画を立ててはまた変更され、今まで全く使ったこともなかった技術を使いこなさないといけなくなった。その日もパソコンやタブレットやとにかくあらゆる機器に振り回され、何度目かの今後の構想になんとか目途をつけ、いい加減一度休憩しようと思いつつ新たなメールに返信していた。先生はしばらく前に急に入院することになったと聞いていたが、今の時期にはお見舞いにもいけないだろうと思い、連絡もしていなかった。電話が鳴った時、発信者に先生の名前を見つけて、私はいつものように「先生?」と呼びかけた。いつもの先生の柔らかい応答が返ってこずに数秒沈黙が続いても、先生が掛け間違えたのだとしか思わず、自分の名を告げた。短いやり取りの後、事態が落ち着いたらお参りさせていただくことにし、私は仕事に戻った。また新しいメール、次の構想に関係する法律……。おかしいと気づいたのは、ニュースサイトを見た時だった。毎日追っていたはずのすべてのニュースに、なんの関心も持てなかった。


 先生のことを直接知らない友人に話を聞いてもらって、自分がひどく混乱しつつあることを認めた私は、先生の縁の場所を訪れることにした。「精神0」の公開当日、ほとんど眠れないまま、私は早朝から歩いていた。普段なら電車に乗っていく距離だが、初めから歩いて行くことに決めていた。もちろん緊急事態宣言が出ていたからということもあるが、とにかく歩いて行かないといけないような気がした。歩きながら思い出したのは、記憶にある限り最初に参列したお葬式だった。田舎のお葬式で、自宅からお寺まで幟をたてて皆で歩いて行き、遠回りしてまた歩いて帰ってきた。


 早朝の町は静まり返り、鳥の鳴き声が支配していた。緊急事態宣言が出てから、町には俄かに鳥が増えたようだった。信号待ちをしている時、わずか30センチ程先の塀の上から、見慣れない鳥が私を見ていたこともあった。そういえば、先生はいつもは謙虚な方なのに、自宅から聞こえる鶯の鳴き声を自慢にしていた。春の初めから、だんだん上達し綺麗なビブラートの「ホーホケキョ」が聴こえるまで、先生と勝手な批評をしながら見守った。確かに毎年、通勤中などに耳にする鶯より、先生と聴く鶯の方が格段に綺麗に鳴いていた。私はそれを、サルのイモ洗いのように、鶯にも模倣による文化と地域差があるのだと思っていた。でも来年からどこで鶯の成長を見守ればいいのだろうと思った時、思い違いをしていた可能性に気が付いた。先生と過ごしている時のように、数時間鳥の鳴き声に耳をすます時間は他になかった。だから最高の瞬間を聞き逃さなかったのだ。先生の言う通り、贅沢な時間だった。


 あらゆる場所と同じように、辿り着いた先もいつも通りではなかった。透明のビニールカーテンの向こうにひとりだけ人がいたので、私はなんとか平静を保とうとしたが、突然すべてがコントロールできなくなった。立ち尽くしているかと思えば間欠泉のように泣き崩れるので、どう考えても不審者だった。しかし、今の時期そういう人もたまに訪れるのか、何も言われなかった。あるいは、あまりにも尋常ではなかったので、近寄りがたかっただけかもしれない。

 気が付けば、とっくに「精神0」を観終わっていただろう時間になっており、私はようやく帰ることにした。「ただいま緊急宣言発令中です。不要不急の外出を避け……」とスピーカーから流しながら、静かな通りを消防団の小さな消防車が通り過ぎた。私がしているのは、不要不急の外出だろうか? 茫然としたまま自宅で仕事をしていた方が良かったのだろうか? 町は相変わらずディストピア小説に迷い込んだような奇妙な様相を呈していたが、すべてが遠く感じられる今の私にはそれが不思議と落ち着いた。


 歩いていると、またあらゆる記憶が脳内を駆け巡った。中井英夫の母を失った時の日記、今振り返るとあり得ないくらい迷惑をかけたある先生に「あなたの心はいつもフラットねぇ。でも何も感じていないわけではないわねぇ」と言われたこと……。次々と流れる記憶には一見脈絡がないようだったが、どうやらこちらが気づかないうちに問いを立て、ヒントになりそうな記憶を片っ端からひっぱりだしているようだった。喪失と弔いについての記憶、これまで出会ったあらゆる先生についての記憶。


 それから3日、なんだか自分がつぎはぎだらけでガタガタしているような気もしたが、なんとか仕事をしたり日常生活を送ったりし、ようやく「精神0」を観ることにした。「精神0」の事前情報はあえて見ないようにしていたが、「精神」からの時間経過を考えると、なんとなくテーマは分かっていた。しかし、映画が始まって、患者さんが入れ替わり立ち替わり現れだすと、その度に覚悟した以上の衝撃に襲われた。彼らの苦しさは私とは比べ物にならないだろうに、皆なんとか山本先生との別れに向き合おうとしていた。「山本先生がいなくなったらどうしたらいい」と途方にくれる彼らに共感したり、別れを告げられること、別れを先延ばしにする可能性が残されていること、訪れる<場>が残されることを羨んだり。そうして、私はまたバラバラになりながらも、私自身が向き合うべき別れについてずっと考えていた。正直なところ、今回に限っては会場が仮設の映画館であったことに感謝しなくてはいけない。


 映画が後半にさしかかり、遅々として進まないが穏やかな山本先生と芳子さんの日常生活を観ていると、私がずっと目をそらしてきたことが突き付けられるようだった。先生はいつもすべてを完璧にしつらえて私を迎えてくださったけれど、だんだん私がすることが増えていたこと。私は友人たちに早く会いに来て、と伝えるべきだと分かっていたのに、毎年年賀状に先生はお変わりなくお元気です、機会があれば寄ってくださいと書いていたこと。芳子さんがいつも向かおうとする「こらーる」だって、昔のようには存在しなかった。古めかしい診療所の中で、看板だけが真新しかった。


 映画が終わりを迎えた時、私はついに、私自身も先生に別れを告げる時がきたのだと観念した。もちろん電話を受けた時から、理性ではずっと分かっていたことだが、実際にはまったく受け入れられなかった。映画の中で山本先生が噛んで含めるように言っていたように、これからもいろいろな日があることは分かっている。それでもバラバラになった私自身を組み立て直し、先生に別れを告げる最初の段階は、「精神0」によって終わりを告げた。 


 この映画を今見られた感謝を想田監督に伝えようと思ったのだが、映画の感想とはとても言えない文章を綴ってしまったため、自分でも困惑している。「精神0」は、別れを体験したことがある人、つい最近までの私のように別れの準備ができていない人、この状況の下で別れについて考えだした人、つまりほとんどすべての人に観てほしいのだけれど、それを伝えるためにはこの文章は長すぎる。それで、ひとまずしばらくここに置いておくことにした。