「lainはシャバいオタクのファッション」←否定したいのにしきれず、ついには自己嫌悪に


「自分を形成した作品10選」を考える時、僕は間違いなくlainをその一つに入れます。
 ミニファミコン、ミニスーファミからレトロゲームという概念を知った僕は、ホラゲーが好きだったことも相まってPSに辿り着き、その流れの一環としてserial experiments lainを知りました。
 乾き淀んだ世界観をPSクオリティのノイズがかった画面や音声が引き立て、そこから提示された「自分がデータで代替可能となった時、果たして命に価値はあるのか」という問いは、当時高校生だった僕にはあまりに革新的かつ冒涜的で、今なお答えが出ない哲学として深く心に刻まれました。

 今日、そのserial experiments lainがヤな取り上げ方をされているのを見かけました。

↓火種になったであろう呟き

  

 何か言い返してやりたいと思案すること数十分、ついぞ何にも思いつきませんでした。というのも、岩倉玲音がニディガにコメントを寄せた時、僕は全く同じ姿をした怒りを抱いたからです。
 lainの物語はアニメとゲームの中に閉じ込められていて、たまたまlainを観測した我々が何かを思い何かを感じ、生活の影からlainのその先を感じ取ったとしても、これから生きる未来でその答えが直接明言されたり形を為して現れてほしくなかった。
 ホラーは怪物が直接姿を現すより存在が仄めかされ続けている方が不気味で怖いじゃないですか。
 そんな風に、lainも僕等の脳に住み続ける仮想の存在、姿が朧気なままの哲学として皆の心を佇んでいてほしかったんです。
 それなのに、24年の歳月を経てlainは顕現した。後追いのファンメイドに擦り寄り、俗物的な言葉を口にする、「元ネタになったカルト作品との奇跡のコラボ」というインパクトの為だけに用意されたアイコンとして。
 その辺の線引きを分かっていると勝手に期待していたにゃるらにもlainにも失望しましたし、lainというコンテンツは「オカルトとしてのインターネットを表象し、心の定義を考えさせる傑作」から「ネット住人の話題作りのため、『鬱ゲー』『プレミアゲー』『ニディガの元ネタ』として認識が画一化される共通言語、ミーム」になったんだなと絶望した記憶があります(これを書いている今では、初めからそうだったのかもしれないなと思いますが)。

 ただ、こんなことは重要ではありません。

 大事なのは2023年の7月、確かに僕は「lainはシャバいオタクのファッションになった」と唇を噛みしめたのに、半年後同じことを言われた時、何か言い返してやりたいと思う程その事実に抵抗感を覚えたことです。
 初めは自分が思うのはよくても他人が思うのはダメというエゴから来た感情かと考えましたが、もし件のツイートがニディガとコラボした際に呟かれたものだったら、恐らく僕は同調の意味を込めてリツイートをしただろうし、ともすれば今以上に「lainはシャバいオタクのファッションになった」と確信を深めていたかもしれません。
 じゃあ一体そのシチュエーションに、一体何があって共感を得たのか。それは「同じ文脈を辿ったか否か」だと思います。

 少し脱線しますが、僕は中日ドラゴンズという球団が好きで応援しています。しかしこの球団、2年連続最下位という圧倒的弱さな上、たて続けにネットを揺るがす騒動を起こした為にここ2年ですっかりネタ枠として定着してしまいました。
 事件発覚当時は呆れたり怒ったりやるせない気持ちになり、TLも同じドラゴンズファンの呟きが飛び交うようになりましたが、そのうち皮肉交じりにその騒動を弄り始めると、そのうち「確かにおもろいな」と思い始めるようになり、時には便乗して変なことを言ったりしました。
 しかし、とあるドラゴンズファンではない知人が突然ドラゴンズの騒動を持ち出し、TLで見た言葉で同じように弄った時、僕はその言葉にイラついたのです。
「lainはシャバいオタクのファッション」と同様、確かに自分は同じことを感じていたはずなのに、「同じ球団のファンとして、同じ怒りや呆れを感じたか否か」で受け取り方が真反対になったのです。
 つまり、何の脈絡や段階もなく、突然かつて感じた感情、殊にネガティブな感情をつつかれてしまった為に、「お前に何が分かるんだ」という逆張り心が表現できない抵抗感として心にわだかまったのではないか、と推測します。僕は何を言うかよりも誰が言うかが大事なようです。

 ここまで考えて思いました。
 僕がlainを好きでいるのは、自己愛なのではないだろうか?
 僕のlainへの向き合い方は、シャバいファッションとしてlainを消費するオタクと、一体何が違うのか? と。

 このツイート同様、「人とは違うマイナーでアングラなもの好き」という己を見せるためにlainを振りかざす者達を「lainをファッションにするシャバいオタク」と決め、その根底には自己愛しかないと蔑んでいました。
 ただ、自分と異なる思想を持つ他者を否定し、同じ思想を持つ者でさえも自分が共感できる文脈を持っていなければ否定する。果たしてこれは「作品」を大事にしているのでしょうか? それとも「作品を通じて出来上がった己の価値観・作品観」を大事にしているのでしょうか?
 僕が好きなものは「lainが発したメッセージや世界観」であり、「それをそう読み取った自分、それを好きでいられる自分」ではないと、本当に言い切れるのでしょうか?
 僕が取った一連の行動は、もれなく自分の考えに踏み込まれたくない自己愛から来たものにすぎないのではないでしょうか?

 そう考えだしてから、自分の好きを信じられません。

 きっとこんな逡巡も深夜だから生まれたネガティブ思考で、明日になれば綺麗さっぱり忘れているか悩んでいてもしょうがないと吹っ切れるのでしょう。そうじゃないとろくに生きられません。でも、これに対して明確な答えを出さなければいつかまた同じことを考え出すと思います。
「本当の好きなんてどこにも存在しない」なんて冷めた答えでは納得できません。
 構成もなく文字を重ねただけ、客観的視点もクソもない独りよがりな駄文が、いつか納得に辿り着きますように。
 勢いだけの文章に2,500文字もお付き合いいただいてありがとうございました。お休みなさい。

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