イワシが降った次の日に

 あまりにも季節外れな台風が桜の花びらをすべて吹き飛ばしたのが昨日のことだった。都心の高層ビルなんかはすべてイワシ肉で覆われた魚肉の尖塔と化し、いわゆる下町である我らが街にも甚大な被害がもたらされた。
 朝食として買っておいたシリアルをもそもそと口に運びながら、一昨日届いたばかりのテレビで流していたニュースが言うには、昨日の台風は実は台風ではなくイワシの群れだったらしい。高速で回転する巨大なイワシの群れが海水を巻き上げながらそのまま浮上、海鳥に追われるがまま首都圏を縦断していったのだ、台風ではない証拠に北半球で起きる台風とは逆回転だったのだと。そんなことだから今日は台風一過の晴天なんてこともなく、薄い雲が空を覆っていた。

 朝起きた時にはすでに「本日の入社式は中止です。今後の日程についても見直します」とのチャットが人事部から入っていた。会社から新入社員全員が招待されているグループでのその投稿にはいいねの親指と泣き顔の顔文字のリアクションがそれなりに付いていて、これから入る会社も、一緒に働く同期も、悪いやつらじゃないんだろうなと思った。
 「今日会えると思って楽しみにしていたのに残念です!」「これからどうなるのか不安ですね」入社前に発表された研修班のLINEグループのメッセージに目を通し、当たり障りのないスタンプを送信してから、今日はどうしようかと思案する。

 今日から働くのだと思って気持ちを作っていたので、こんな形で肩透かしを食らうとどうにも落ち着かない。シリアルを食べ終わったボウルを流しに置き、洗う気にもならなかったので放置、そのまま玄関に向かった。
 ニュースでなんとなく映像は見ていたが、こんな日に実際に外を見に行かないのはもったいないという気持ちになってきた。

 外はなかなかひどい有様だった。壁や塀にはイワシの肉片がこびりつき、カラスや、あまり見たことのない海鳥がそれをつついている。地面にはまだ全身の形を残したイワシが転がっていて、それが漁船の水揚げシーンを彷彿とさせた。
 「おっ、クロさん」
 クロさんというのはここに引っ越してきた初日に見かけた野良猫で、名前通りの黒猫だ。ちょっと痩せているが毛並みは良く、人をあまり怖がらないあたり地域の誰かが世話しているのだろう。クロさんは道の端に落ちているイワシを何回か前足でつつくと、咥えて建物の隙間に消えていった。

 確かにアリかもしれない。せっかく食用にできる魚が降ってきたのだから今日のおかずはこれにしよう。比較的新鮮そうで、鳥や野良猫につつかれていなさそうなイワシを数匹見繕い、洗ってから冷蔵庫にしまった。
 朝のニュース番組もそろそろ終わる時間だったのでテレビを消し、外に出ただけで全身が生臭くなった気がしたのでシャワーを浴びた。シャワーを浴びたあとにはスマホで動画を眺めて、そのまま寝ていたらしい、目覚めたときには昼過ぎだった。

 ……喉が渇いた。コップに水道水を汲んで曖昧に喉を潤し、そうだ冷蔵庫にビールがあったな、昼はビールを中心に考えるか。
 イワシはまだ生でもいける気がする、なめろうでも作ろうか。

 「イワシ さばき方」で検索してYouTubeで一番上に出てきた動画に倣ってイワシをさばく、まあ自分しか食べないのだから多少間違ったところで自分しか困らない。血とか内臓とかは生で食べるとよくない気がするので強めに洗った。シンクも引っ越して数日でこんなに生臭くされるとは思っていなかっただろう、気の毒なことだとは思う。
 さばいたイワシを味噌とチューブのしょうがと合わせてたたく、材料が今これだけしかないがこれで成立はするだろう。

 突発の休日の昼だ、これだけあれば上出来だろうということでなめろうとビールで昼食にすることにした。昼に飲む酒がクールだという感覚の子供っぽさは感じながらも、しかしそのクールさの誘惑に流される、そんな昼食となった。
 ビールを飲みながらつけたテレビではイワシ台風のニュースが繰り返されていて、相変わらず電車は止まっているしどこのランドマークもイワシ肉まみれだとのことだった。
 こんな日に昼から酒を飲んで、自分で作ったものをつまんでいる。寝転がって窓から覗いた空は、曇り空の隙間に日の光が差し始めていた。

 350mlのビールを一缶開け終わって、気が乗ったので朝の分とまとめて皿を洗った。皿を洗ったらこの家に来て初の床掃除をして、しかし引っ越したての家ではそれ以外にすべき家事もないのでPCを起動した。働き始めたらゲームする時間も減るな……と思っていたのが思わぬアディショナルタイムになった。酒を飲んで対戦ゲームをするほど愚かではないのでハクスラゲームを起動する。オンライン協力モードにはそこそこ人がいた。
 マッチング前のチャットはイワシの話でもちきりで、平日のこんな昼間にゲームしようという自分と同様の暇な日本人がそれなりの数いて、謎に安心したりした。そんなノリで始めたゲームはさほどうまくいかなかったが、それでもそもそもこの時間にゲームできるはずがなかったのでそれもまた一興と思えた。

 気分のいいうちにゲームを切り上げて、なんとなくの習慣でもう一度シャワーを浴びた。夕食はイワシのつみれ汁にしようと思った。
 まずは米を炊飯器にセットして、米が炊けるまでの間で昼と同様にイワシをさばいてたたき、つなぎで片栗粉を加えてしょうがと醤油で下味にする。つみれがだいたいできたところで冷蔵庫にほぼ野菜がないことに気が付いた。今更野菜を買いにスーパーに行こうなんて無理な話だ。そもそも行ったところで今日のこの状況ではろくに品物がないだろう。
 仕方がないのでつみれ汁から方向転換、つみれのタネをそのまま焼いていわしハンバーグにした。結果米といわしハンバーグで簡素な夕食になったが、今日はこれができただけでも上出来だろうと思った。

 今日はなかなか悪くない日だったと思いながら皿を洗い、寝る前に外の様子でも見るかとベランダを開けたら生臭さの中に腐臭が混じり始めていた。
 こういう日に限って馬鹿みたいに煌々と照っている満月に対して笑いそうになりながら家の開口部を極力全部閉めて早めに寝た。明日はきっと本当にどうしようもないだろう。だがそれを今気に病む必要もないのだ。

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