読書感想文:教育格差絶望社会 福地誠 洋泉社

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福地誠先生の「教育格差絶望社会」を読み終わった。
本書を買ったときにそれをツイートしたら、なんと感想を書いたらそれを元に福地先生がひとつ記事を書いてくれるという。
著者が一個人の読書感想文にそこまで取り計らってくれるなんて、これはとても光栄でうれしいことだ。
そんな期待に応えて、俺も本気で読書感想文を書いてみようと思う。
感想を書くに当たって、何の根拠も無く専門家の意見に盾突いても寒いだけなのでそれはせず、基本的には記述に関する純粋な感想と、本書でカバーしていない部分についての私見と、本書と比較して俺個人がどういう体験をしたかという内容で構成しようと思う。
俺はかなりお堅い文章を書くのが得意な方だけど、堅くしすぎてクソ真面目感が出るとこの配慮が無駄になるので、俺らしくないけれども、自分なりにできるだけやわらかい感じで書いてみようと思う。


本書の存在を知ったのは2009年か2010年くらいだっただろうか。
福地先生が大阪に来て天鳳のオフ会に参加するという。
福地先生のことを知ったのは2006年から2007年にかけて近代麻雀の購読を始めたときだった。
俺はあの福地先生に会える!と思ってオフ会に参加を申し込んだ。
当時発刊されたばかりのドヤ顔本を持っていって、サインをいただいたことは良い思い出だ。
ちなみに、比嘉さんともそのオフ会で初めて会い、麻雀プレイヤーとして大きな基点となった。

その頃の福地先生は、2chの天鳳雑談スレで愛されつつも叩かれ煽られる、ちょっと痛いゆるふわおっさんキャラだった。
そんな時期に福地先生の近代麻雀コラム以外での顔を色々と知り、その情報の中のひとつとして知ったものだったと思う。
(mixiで見たのが初見だったとしたらもう少し早い時期だったかもしれない。)
一見ゆるいおっさんがこんなお堅いテーマの著書を持っているなんて、という意外な印象だったと思う。
それでその当時から本書への関心はあった。
ただその関心を行動に移す機会が最近になるまで無かっただけだった。
きっかけは下記の福地先生のnoteだった。


すでに本書を読み終えた人がたまに感想を言っているのを見て気になっていたし、noteでのこういう記事をもっと深く楽しみたいと思い立って、さっそく中古で手に入れた。
2006年7月10日初版発行となっているから、当時最新だった情報も15年前の情報ということになる。
このタイプの本は将来の予測をしていることが常だから、現実がどの程度予測通りになったのか、答え合わせができるとワクワクしながら本書を開いた。

まえがきはともかく、プロローグでいきなりパンチをかまされた。
初っぱなから元奥さんの話が出てきた。
15年という時間の長さを痛感した。
いやまあnoteで引用されていたからわかっていたことではあるけれども、
世に出回っている立派な現物の書籍で見ると重みが違って見えた。
内容の核心部分が楽しみである。

本書の内容は、前半は過去から執筆時点までの事実と変化の流れ、それを裏付けるデータなどが中心、後半は前半を踏まえて将来がどうなるかの予測や問題点の指摘といったことが中心の構成。

とりあえず読み進めてその情報密度に圧倒された。
語られる事実の全てにデータや識者の意見などが引用されていて、しっかりとした根拠が示されている。
段落ひとつにいくつもの根拠が盛り込まれている。
文章のつくりや言葉の選択もなんだか格調高い。
これがあの福地先生なのか。
これを書いたあとわずか数年で、らいつべで「へいんへいん」言いながらぺしぺし天鳳を打つ様を垂れ流したり、コラム「頭がいい人、悪い人の麻雀」でいちいちオチにエロや恋愛ネタを持ってきたり、2chで呼び捨てにされて「敬称をつけてふくちんこと呼べ」と怒るちゃらんぽらんなおっさんに変貌してしまうのか。
いや、それとも別人が書いたものなのか。

とはいえ、思い返してみれば麻雀戦術本でもちゃんと書いていた。
判断基準をしっかりと示したり、計算結果から比較したり、強者の意見を併記したりしていた。
文章のテイストを変えているだけで、データを要約して顕著な部分を拾い上げて示すスタイルは共通している。
本気を出したらこんなにすごい文章が書けるということは、普段どんだけテキトーにやってんだよって話だ。

前半の内容で主要なテーマは、大卒と高卒の格差、教育費の高騰、教育制度の変遷といったところだろうか。
教育費の高騰については、特に大学の授業料についての話題が定期的に報道されていることもあり、それ自体はよく知られていることではあったけど、数字として示されるとなかなかに衝撃的な実態だと感じられた。
教育制度の変遷については、中高一貫校の台頭については知らないことが多く、感心しきりだった。
この分野は私立の得意分野かと思いきや、国公立が健闘しているというのも意外だった。
俺が住んでいる大阪でも、かつては厳しかった高校の学区制が緩和されて、
自分が受験したときよりも選択肢が拡がっているとは聞いていた。
習熟度別クラス編成についてもタブーではなくなっているという。
中学時代の俺は成績が学年でトップクラスだったから、できない生徒に合わせて足を引っ張られるのを鬱陶しく感じていたけど、これが好意的に受け入れられるようになったというのは変化の大きさに驚きもしたし、うらやましくも感じた。

ここで俺自身と環境について少し話そうと思う。
俺の両親はともに高卒で、本書でいえば格差の下層から抜け出せずに苦しむ側ということになる。
父ちゃんはモロに団塊の世代で、俺はその子供だから団塊ジュニアということになる。
ただし父ちゃんは中学時代から学業が優秀だったらしく、高校は最寄りではない実業高校への進学を勧められたという。
そこでも優秀な成績を修めてさらに大学への進学を希望したけど、家庭の経済事情からそれが叶わなかった。
それで集団就職の流れに乗って、山奥の田舎から大阪に出てきて、技術職の公務員になった。
父ちゃんは物静かな性格で、金のかかる趣味は一切持たず、堅実に貯蓄を積み重ねていった。
俺が勉強のために必要だからと言えば、本や教材の類いは何でも買ってくれた。
両親ともに高卒でありながら、教育に関しては経済的には大卒の家庭と同等の恵まれた環境にあったと言える。
そうして、妹ふたりがいる家庭の中で、俺は唯一の大卒となった。
妹ふたりも高卒ながら、どちらも私立に進学した。

俺自身は小学1年生のときから公文式に通い出して、中学3年進級と同時に高校受験対策の進学塾に移った。
公文式は広義では塾と言えるけれども、受験対策の勉強をする場ではない上に、数国英の3教科しかないから、高校受験はもちろん、中学の定期試験対策としても不足があった。
それでも俺は中学の成績は優秀だったから、進学塾に通い出したら鬼に金棒だった。
結果的に俺は高校の進学先偏差値の学年トップとなった。
(合格先偏差値学年トップは別の生徒で、そいつは学区の公立トップ高校に進学した。)
進学先高校の選択理由は明快で、公立トップ高校よりも偏差値が高いからだった。
その後、その高校から内部進学できる有名私大に行って4年で卒業した。
大学受験対策は全くせず、センター試験も受けていないので、大学受験については知らないことが多い。

教育的な面では、俺は両親から勉強についてあまりうるさく言われたことは無い。基本的に放任主義だった。
むしろ自分から進んで勉強したいことを見つけて、あれがしたいこれがしたいとねだっていた。
ただひとつ挙げるとするなら、高校時代に、学業の支障になるからという理由で、夏休み以外のバイトができなかったくらいだ。
勉強に関しては親から学んだり伝授されたことはほとんど無いと言ってもよいし、それで困ることはなかった。
今にして思えば、両親から受け継ぐことが無かったために最も困ったことと言えば、就職対策が手探りとなったことだった。
俺は就職氷河期の最底辺部に当たる世代で、ただでさえ厳しい就職環境の中にありながら、大卒の就職活動を知らない両親を頼りにすることができず、その結果として3年も就職浪人をすることになった。
なんとか射止めた就職先は、海上自衛隊だった。
採用試験区分は一般幹部候補生といって、自衛官の採用区分としては最上級の試験だ。
採用後の待遇は防衛大学校卒業者と同等で、中央官庁の国家公務員1種(現総合職)採用者に次ぐキャリアと言われる。
不祥事さえ無ければ最低でも2等海佐(旧軍中佐相当)までの昇進は約束されている。
給与面で言えば、公安職俸給表が適用になる上に、乗艦手当がつけば基本給の30%が上乗せされる。
両親が高卒の家庭からキャリア公務員になったのだから、上出来どころか困難なエリートの壁を打ち破ったと言えるだろう。

まあその海上自衛隊をたった半年でやめちゃったんだけど。
さんざんイキっておいてこのオチである。

本書では2006年現在の教育制度が中心となっているから、俺はだいたいその一回り程度前の世代ということになる。
さらに現在の視点から見ることができるから、3つの視点から本書を読むことができる。

大学全入時代という言葉を聞くようになって久しいけど、有名私大への内部進学がついてくる俺の出身高校は、大学のブランド価値の低下からか、今では偏差値がびっくりするほど下がっていた。
入学当時には完全に格下に見ていた別の高校に偏差値を逆転されている。
元々男子校だったのだけど、俺が卒業してすぐの時期に共学化した。
共学化するとそれ以前より偏差値が下落するケースはかなり多いと聞く。
かつての大阪は私立王国と呼ばれていて、私立高校がブランド的に優位に見られていた。
ところが教育制度改革のおかげか、公立高校が普通科以外に特進科や理数科を設けたりして、偏差値で躍進を見せて私立高校の牙城を崩している。
諸行無常の響きあり。

教育格差の再生産については、本書で具体的に読まなくても以前からそうだろうなと思っていたことだった。
典型的なのは、医者の子は医者になるし、弁護士の子は弁護士になるケースだ。
そしてDQNの子もDQNになる。

もうだいぶ昔のことになるけど、祖母の葬儀で式場を借りたときに、同時に行われた別の葬儀に参列していた人が、ことごとく金髪、茶髪、喪服着崩し、姿勢が悪い、仕草に品性が無いなどの特徴が見られたことがあった。
親族一同揃ってDQNで、ああやっぱりそういうもんだよな、期待を裏切ってこないなこいつらと思ったことがある。

子は親の影響を多大に受けるし親のマネージメントにより育つから、その子もまた親と同じような大人になる。
人は似たもの同士、近いもの同士で集まりたがるから、ある人と結婚する人は、そのある人とよく似た人が相手になる。
こうやって、経済的な面だけでなく、文化的な面でもそれが一族で継承されていき、再生産されていくのだろう。

本書でもそのメカニズムが具体的に語られているけど、一部カバーできていない分野がある。
それはインターネットだ。
インターネットで知り合う人は、クジを引くような感じで、相手の学歴や属性などの影響を受ける部分が少なくなる。
特に顕著なのはMMORPGなどのオンラインゲームだ。
娯楽を第一の目的としてプレイヤーが集まるので、その集積の段階で学歴などのフィルターや、同質化の圧力が働かない。
俺自身の経験でもプレイしているMMORPGで所属しているギルドの会話で、
「みなさん歳はいくつくらいなんですか?僕中学生なんですけど!」
なんて言われて、年齢が倍以上離れているギルドメンバー一同が絶句したなんてことがあった。

現在は本書執筆当時よりもさらにネット社会が発達しているから、同質化に逆らう可能性を持ったネットコミュニティが、格差再生産の仕組みを打ち崩す可能性があるのかどうか気になるところだ。
20年前にはオンラインゲームで出会った人同士がリアルで結婚するなんてことはまだ少なくて、それをプレイヤー仲間に打ち明けると仲間たちから盛大に祝福されるなんてことがあったけど、現在ではもはやそれは特に珍しいことでもなく、よくあることになっている。
異質な人同士が出会うのだから、格差婚が発生しやすくなる。
こういうネットの出会いでは、リアルで会える距離に住んでいるかどうかの地域的な要素が、学歴や年齢などよりも相対的に重視されるコミュニティなんだろう。

そして本書でカバーできていない分野としてもうひとつ挙げられるのがいじめの問題だ。
いじめは子供の人生をねじ曲げるほどの大きな影響を与える。
俺は小中高大の全てでいじめを受けてきた。
子供の社会は法律が支配力を持っておらず、「武力」がものを言うことが多い。
争いが発生したら、相手を黙らせる腕力があるかどうかが決め手となる。
俺は運動神経は人並みにはあったけど、発育差で体格が同級生の平均と比べてかなり小さかったから、腕力の勝負になるとどうしても相手に引けをとることが多かった。
子供の世界は法が支配しない残酷な世界だから、ひとたび弱いと思われると食い物にされてしまう。
小学3年生か4年生の頃、同級生のDQNに暴力の対象として目をつけられて以来、毎日のように殴る蹴るの暴行を受けた。
「いじめ」というものがまだ社会的に問題視されていない時代だったから、一方的にやられているのに周囲からは喧嘩だと言われた。
しかも5年生から6年生のときの担任にまでいじめられた。
いじめからの救済を求める対象すらいなくなってしまった。
その教師(女)は何かにつけて粗探しして、使えそうなネタを見つけるやいなや俺にビンタをぶちかまして、それから俺の弁明を聞くというスタイルだった。
泣きながら震えていると「そうやってすぐ拗ねる!」とさらに理不尽な「制裁」の対象となった。
同級生は絶対的な正義である教師の振るまいを見て、俺を悪者として扱った。
今同じ事をやったら間違いなくその教師は刑務所行きだろう。

俺をいじめてくるやつらは多かれ少なかれDQN気質を持っていた。
DQNはほとんどが頭が悪いし、頭が悪い奴は短気が多くてすぐに暴力にものを言わせる。
それを身を持って知った俺は、こんな頭の悪い奴らがついてこれないような学校に行こうと、元々できる勉強にさらに身を入れて、高校入学でそれを実現して見せた。
しかし色々と運が悪かった。
俺は中学までの経験から極度な人見知りになってしまい、さらにその高校は中学からの進学組がいて、すでにできあがっているコミュニティに入っていくことができずに浮いてしまった。
結局高校でもいじめられることになってしまい、学力や知能はいじめの発生を抑制するものではないと思い知った。
そうして俺は高校は留年ギリギリまで欠席する不登校になり、登校した日も勉強が何も救済してくれないことを知っているから、その意欲もなくなって授業中はほとんど居眠りしていた。
今にして思えばもったいないことをしてしまったけどそれは大人になったから言えることで、15歳そこらの子供にはその状況をひっくり返すなんて無理なことだった。
普通に勉強できていれば内部進学できる大学よりももっと上位の大学に進学できていただろうと思う。
子の置かれる環境は本書で語られる要素を無効化させるほどの影響がある。
親の経済力や文化的な側面を破壊するほどの影響力を持ついじめの恐ろしさを経験した。


教育制度改革のひとつの論点として、高校無償化がある。
本書で語られる経済格差を緩和する効果があるので、これが実現すれば影響は大いにあるだろう。
ただし、俺個人の意見としては、この導入にはやや反対の立場だ。

2008年くらいだっただろうか、橋下さんが大阪府知事だったころこんな報道があった。
ある女子生徒が涙ながらに橋下さんに訴えかけていた。
「私たちは通っている(私立)高校の学費が高すぎて困っています!助けてください!」と。
それを見て俺は、「いや、少しでも勉強していれば最底辺の公立高校には行けただろ、自業自得」と思った。
さすがに最底辺の公立高校にすら行けない学力なのは、全く勉強していないからとしか思えなかった。

俺自身の経験としても、中学3年のとき、志望校の選択についてこう罵られたことがある。
「お前の選んだ高校は偏差値だけを基準にしていて中身が無い。勉強ができるというだけで選んだ高校に満足するのはおかしい。私たちは自分たちの意思で選んだ高校に行くべきだ!」と。
当然俺からすればそんな馬鹿な言い分はあり得なかった。
そいつは結果的に公立の最底辺高校へ進学したのだけど、それがそいつが選べる精一杯の高校だった。
俺は自分の学力なら選び放題の中から志望校を選んだ。

市内でも筆頭のDQN中学だった俺の中学は、「地元集中運動」といって、出身中学に地理的に近い低偏差値の公立高校へ、全員仲良く友達同士で行きましょうという運動を展開していた。
「こちとらお前らとおさらばしたくて努力してんだよ!そもそもお前らの勉強量は元々できる俺の何分の1だよ」と心の中で返した。
「よしんばそれを受け入れたとして、俺が受験することによってその高校への進学がやっとのお前らは、確実に俺に席をひとつ奪われるんだぞ」と。
今ではその地元集中運動はなくなったと聞く。

義務教育レベルの勉強なんて、よっぽど不真面目でもない限り最低限のことはできるようになると思っている。
でも本書を読むと、本当に努力をしてもできない子も少しくらいはいるのかな、とも思わされた。
教育にかかる費用が高騰している上に、学力の格差拡大も進行しているから、仕方なく競争に晒されている格差の下層にいる人たちに救済の手を差し伸べることも必要なのかもしれない。
けどそんなに理想通りにいくものなのかな。


大卒と高卒の間には大きな溝があって、その両岸では単純な学力差だけでなく、生き方や考え方の違いまでも生み出す。
240ページで語られる、学歴で得る人脈というのも大きな要素のひとつだ。
俺には常々感じていることがあって、大卒と高卒では世代の離れた人に対する接し方の違いが大きい。
大卒の方が世代間の交流に親和的で、高卒は世代の違いに反発的であったり敵対的であったりする。

高卒は18歳で社会に出て、いきなり大人の世界と接続する。
そこでは歳の離れた大人からうるさく言われることに反発して敵対心を抱くことになるのだろうと推測される。
ネットではよく「老害」なんて言葉を目にするけども、この老害という言葉を多用するのは、高卒の方だと思われる。
極端に言ってしまえば、高卒は世代の違う相手は基本的に敵なのである。
高卒にとっては社会に出る前から出た後も、常に大人は自分に難癖や制限をつけてくる相手で、敵視すべき存在なのだ。
そして自分が大人になった後は、下の世代も敵となって、下の世代の高卒からも敵と思われる存在になる。

それでは大卒の方はどうか。俺自身の経験も合わせて考えてみる。
大学生にとって上の世代は社会に出ている世代になる。しかもその世代に上限は無い。
部活動に参加していると、OBがよく指導に来てくれるのだけど、OBは後輩たちに心から親身になって接してくれる。
俺は剣道部に所属していて、上は80代から下は卒業したばかりのOBまで、幅広い世代と交流の機会があった。
その中で年上の人たちが何を考えているのかを知り、自然と世代の違う相手との社交術を身につけていった。
年上の持つ能力・経験・知見に素直に感心し、それを敬うようになった。
後輩は面倒見の良い先輩のことが好きで慕うようになるし、先輩は慕ってくれる後輩がかわいくてたまらない。
そうして後輩は先輩から受けた恩を大人になってから後輩に対して返して、自らが先輩になっていく。

ここでは顕著なものとして年齢差を挙げたけど、総じて大卒の方が異質な相手に対しても寛容なことが多いと感じられる。
言い方を変えると、高卒は年齢差に限らず少しの違いを、味方と敵を分ける属性として認識している。
気のせいだろうか。


大学のあり方については古くから議論の対象となっている。
企業から見た大学に求めるものは、大学側はそれに安易に迎合してしまっていいものだろうか。
本書では生き残りをかけた大学の生徒争奪戦が熾烈であると語られている。
そこでは志望者集めに有力なアピールポイントとなる就職実績を向上させるために、企業の求める人材を育成する大学へ変化していくことが必要だとされている。

このテーマに差しかかったとき、俺は少し嫌な気分になった。
大学は学問が本分であって、職業訓練校ではない。
企業は安易かつ効率的に即戦力の人材を集めようとしすぎていないだろうか。
日本の新卒至上主義の雇用環境からすれば、企業は人材の育成を他所に頼ったりいいとこ取りをせずに、自社で必要な人材を育成すべきではないだろうかと思う。

バブル崩壊以降、企業は目先の利益ばかりを追い求め、必要な人材の育成を怠って即戦力を手に入れようとした。
その結果、就職氷河期が引き起こされ、現在では40代の中核社員が足りなくて困っているという。
そんなもん自業自得だろうとしか思えないし、そもそも採用を極端に絞ったのだから、将来そうなることは予測できたはずだ。
以降も企業は採用を絞っているのに人材難だと宣っている。
企業の振る舞い方は短絡的でいい加減だ。
そんな自己中心的な企業に大学が振り回されてよいものかと思う。
大学側も生き残りをかけているので企業の意向を完全に無視してやっていけないし、バランスが難しいところだ。

本書では教育システムが大学までのものとして書かれているけど、教育が何らかの知識や技能を修得させるものとすれば、仕事に必要な知識や技能を修得するための研修などもまた教育の範疇に入るのではないかと思う。

世間がアベノミクスの効果について議論していたころ、ある画像を見て上手く言い当てていると思ったものがある。
ワイングラスのタワーがあって、その頂点のグラスにワインを注いでいくと、いずれ溢れてこぼれたワインが下段のグラスに入る。
下段のグラスが溢れると、さらに下段のグラスにワインが流れていくという図解だった。
これは頂点を大企業として、その下が中小企業、最下段が零細企業や国民で、ワインは金の流れを示した理想の模式図だった。
ところが現実は頂点のグラスがどんどん肥大化していって、アベノミクスの利益を独占してしまうというように描かれていた。

実際そういう風になるだろうと当時思ったし、バブル崩壊以降の企業の振る舞いを見るとすでにそういう実績があった。
バブル崩壊後に一度バブル期を越える長期の大型好景気があったとされているけど、これを享受したのは企業や資本家のみで、一般の国民にはそれが還元されず、実感なき好景気と言われた。
企業は目先の利益さえあげられればそれでいいと考えているし、相手の立場を考えたり公益的な視点を持つことはない。
その結果国民の所得は大幅に減少したし、日本の賃金は他国と比べて低い例さえ見られるようになった。
そして中国に金の力で人材を引き抜かれて、果てには大切な技術までも奪い取られてしまっている。
本書執筆当時にはバブル崩壊以降「失われた10年」と言われてきた闇の時代が、今や「失われた30年」と言われようとしている。
企業がやらかした、特に就職氷河期世代に対する仕打ちを思えば「ざまあw」という気分だけど、日本社会が崩壊しては困るので、そろそろ企業は目を覚まして自前の人材育成に力を入れろと思う。
教育システムの改革とともに、企業の意識改革もそれ以上に必要だと思う。

最近読んだ本にこういうものがある。

教養としての「労働法」入門 編著:向井蘭 発行:日本実業出版社

この本では日本と外国での労働実態の違いを紹介して、その制定された背景から労働法を解き明かしている。
各国の労働法も当然その国の実情が反映されたものとなっている。
日本には日本の独自の事情があって、それを無視してシステムだけ外国のものを取り入れようとしない方がいいと思う。
その実情に即した、日本独自の新卒至上主義のシステムに立脚した、教育システムをとりこんだ人材育成体制を整えて、長い目で見た競争力回復を目指していくべきではないかと思う。
教育後進国に陥る前に日本が再起してほしい。
(新卒至上主義をどうにかした方が良いとも思うけど、いずれにしても日本は長期雇用を前提にしたシステムだ。)

250ページでは企業のニーズに対応した専門職大学院が増えると紹介されている。
学制の長期化が当たり前になっていると。
本書発行時点ではまだ結果の出ていなかった司法制度改革による新司法試験制度と法科大学院の設置が思い浮かんだ。
この司法制度改革では多様な人材を法曹界に呼び込むことを理想としていた。
しかし実際にやったことといえば、多様な人材を呼び込むはずなのに、なぜか門戸を狭くしてしまった。
授業料の極めて高価な法科大学院の卒業か、旧司法試験並の難度の司法試験予備試験に合格しなければ、司法試験本試験の受験資格が得られない上に、受験資格取得後5年以内に合格しなければ受験資格を喪失する。
そして現実は新試験制度では目標とする合格率の水準を保てず、法科大学院を廃止する大学も続出している。
完全に失敗したと評価されている。

法科大学院への入学も、まずは適性試験を受験しなければならず、この試験を俺自身も受けたことがあるけど、法律とは無縁の、公務員試験とSPIを足し合わせたような奇妙な問題が出題されていた。
法律を学びたいのに、その前に受験対策のために、何の役に立つのか分からない対策を勉強しないといけない。
求めるものとやってることがチグハグで、いったい何がしたいのか見当もつかない。
医者になるには高額の教育費がかかるのと同様、弁護士になるにも従前よりも金がかかるようになり、医者や弁護士というエリート職がますます金持ちの独占する職となってしまった。

あとがきで語られる幸せは主観的なものではないかというのは、ズバリその通りだと思った。
ただし付け加えておくべきことがあると思った。
人が幸福を感じるのは、自分の中にある幸福の器が満たされたときだと思うのだけど、その器の大きさが人によって大きく異なるということだ。
大きな器を満たすには複雑な条件をクリアしないといけないのに対して、小さな器を満たすのは難しくない。
これを大卒と高卒に当てはめてみると、大卒の方がその器が大きい傾向にあると思う。
マズローの欲求五段階説にいう、欲求の次元が高いか低いかということになる。
例えばパチンコでは、金を入れると一定確率で増えて戻ってくる。
金というのは欲求を満たす手段としては、短絡的で本能的な部類に入る。
結果が出るまでの時間が短く、作業の内容も単純だ。
幸せを感じられるということは生きていく上で重要なことだけど、その質が無視されてよいものではないと思う。
この部分も本書で目にする前から、日頃感じていたことだった。

期待を裏切らない完成度の高い本だった。
俺個人は本書で語られるタイプから外れる、どちらかと言えば珍しい方のケースだろうと思う。
純粋な感想よりも自分の経験や考えの話が多くなったし、文章もやっぱりお堅い雰囲気を抑えきれなかった。

それにしても、最後まで読んでみると福地先生の文章だなと感じるところがたくさんあった。
最終盤で好きなスポーツの話を無理矢理ねじ込んでくるところとか、近麻コラムに通じるものがある。
そして132ページと230ページで麻雀の話が出てきたけれど、こんなケースを一例として拾ってこれるのは福地先生だけだなと。
もしかしたらこのケースを書きたいがためだけに本書を著したんとちゃうんかとw

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