夢の話13
夢の話。というか、生きる意味の話。
7月2日は父の誕生日である。
何歳になるかは、わからない。
たぶん、74歳から76歳ぐらいである。
こんな機会なので、ちゃんと父と向き合ってみたい。
きっと、これは、私の遺書なのかもしれない。
私は、父が嫌いだった。
出稼ぎで父と母は、大阪で出逢い、結婚し、私が生まれた。
父の母へのプロポーズは、「財産があるから結婚してくれ」ということだったらしい。
と、母にプロポーズをして、実家に連れて行って財産としてみせたのは、「とーとーめー」と「門中墓」だったらしい。
それを母は、笑いながら恨み節で語っていた。
大阪から引き揚げた私たち家族は、父の実家がある備瀬に移った。
母も元々は、備瀬の出身だったので、問題はなかったのかもしれない。
小さいころ、海洋博が開催された。
小さいころ、父に肩車をされて連れていかれた記憶がある。
アクアポリスや水族館、文化館、くじら館などをみて、未来の沖縄や世界は、このような都市になるとワクワクした。
一方で、海洋博バブルで備瀬はおかしくなっていた。
父も寿司屋をオープンしたり、連帯保証人などになり、借金をして賭けにでた。
その賭けは、失敗だった、と思う。
今振り返ればである。
その当時は、備瀬にいる人だけでなく、沖縄の人々は、復帰後、海洋博という未来に熱狂したのではないだろうか。
その後の生活は、大変だった。
父は、借金を返すために、寿司屋は閉め、農業と建築業を兼業するようになった。
母は、海洋博後の水族館で勤務をし、家計を支えた。
父は、度々、酒を飲んで家で、暴れた。
酒を飲んで帰ると、寝ている私を起こし、勉強するように、と机に向かわせた。
泣きながらも、父が怖かった私は、机にむかった。
そんな父が憎かった。
なぜ、母は父と離婚をしないのか、心から疑問に思った。
家は、貧しかった。
シャワーやお風呂は、コンクリート打ちっぱなしのボロボロの離れのようなものだった。
トイレも離れにあり、汲み取り式で、ゴキブリが大量に発生し、夜中にトイレに行くのは怖かった。
貧しさは、金銭の貧しさだけでなく、体の貧しさ、心の貧しさにもつながった。
体の貧しさは、病気となって現れた。
私は、小さいころから、小児喘息で季節の変わり目に、救急病院にお世話になった。
そんな時には、母が病院でつきっきりの看病をしていた。
たまに、父が病院へ運び、看病してくれた。
そんな時は、憎い父でも、ありがたかった。
心の貧しさは、学校でのいじめとなって現れた。
私は、病弱であったため、学校を休みがちであった。
名前も、ダイヤという、当時では考えられない、革新的な名前だったため、いじめの対象となった。
私自身、いじめにもあったが、より立場の弱い人をイジメてしまう、こともあった。
小学校5年の頃には、心の貧しさは、ピークとなり、毎日、死ばかりを意識していた。
ある日、小学校のノートに、真っ黒くなるまで死という文字を書き続けた。
それを見つけた担任は、家族に報告をした。
どう対応したかは、覚えていないが、真っ黒になったノートと、手が鉛筆で真っ黒になっている感覚は覚えている。
その頃も、父は度々、酒を飲んでは、家で口論をしていた。
口論していた日、弟が買っていたカブトムシを、ガスコンロで焼こうとしていた。
理由は、タイワンカブトムシは害虫だから処分する、ということだった。
それを必死で、泣きながら、母と一緒にとめた。
そんな父を、許せず、思わず、台所で包丁を握りしめて、刺して一緒に死のうと、考えた。
しかし、必死で母と一緒に止め、カブトムシの命も助かったので、思いとどまった。
そんな父を憎んだ。
小学校6年生の時、B型肝炎ウイルスになった。
小学校6年間ではじめて、1年間の皆出席が達成する直前だった。
3学期にあった、校内マラソン大会で、無理をして、吐きながら走って、完走をしたが、そのまま倒れた。
でも、卒業式まで、あと1週間というところまで、頑張り、それでも体調が回復しなかったため、病院にいった。
診断は、B型肝炎ウイルス。
あと3日遅ければ、死んでいましたよ、という医師の診断。
即入院で、小学校の卒業式も中学校の入学式も出席できなった。
北部病院の個室で、そのまま死ねればよかったのに、と思った。
私自身、死への意識は強い。
幼いころから、死の経験をしていたのと、自らを追い詰めて、死にたいと思っていたからである。
でも、助かった。
1か月間、入院中の個室で考えた。
死とは、生きる意味とは、小学生でそこまで深く強く感じることはない、哲学的なことを。
結果は、いつかは死ぬ命であれば、人のためになることをして死のう、誰か1人でも救えるのであれば、命を投げ出そう、と自分自身に誓った。
なので、死んでも目以外のすべての臓器は移植をする予定である。
目は、白内障と緑内障のため、臓器提供しても活用できない可能性があるため、あと、火葬する際に、目がないと見た目が怖いような気がするので、目だけは遺したい。
臓器移植をするために、延命治療もいらない。
死ぬのであれば、家族で看取られながら、家で死を迎えたい。
中学校の時の夢は、医者であった。
小さいころから病院によく通っていたのと、一人でも多くの人を救いたい、という想いから、医師を目指した。
中学校の弁論大会でも、医師になる夢を語り、校内代表に選ばれ、本部町内大会にも出場した。
中学は、バスケ部に入り、体力もつき、私自身のいじめはなくなった。
ただ、先輩からの金銭せびりや給食のパンの巻き上げなど、多くの同級生と一緒に先輩からの拝金制度はあったが、個人的ないじめはほとんどなくなった。
一方で、同級生に対するいじめを放任してしまっていた。
イジメられていた同級生のことを考えると、今でも申し訳ない気持ちでいっぱいである。
自分自身がイジメられていた経験があるにも関わらず、その同級生に助け舟を出してあげることができなかった。
その同級生は元気だろうか。
その後、どのような人生を歩んでいるだろうか。
成人式の日、40歳の同窓会の時に再会した覚えがあるが、謝った記憶がない。
次回、会う機会あれば、謝りたい。
中学か高校の頃、父が急性肝炎になった。
アルコール依存症のような状況だったため、ようやくという形で肝臓が病気になった気がする。
もしかしたら、悪かったのを我慢していたのかもしれない。
父は、酒を飲んでいない時は、ほとんど話さないからである。
父が肝炎になり、私は、父もB型肝炎ウイルスで、父のせいで、私は肝炎が遺伝したかと思い、父を恨んだ。
父の診断結果は、急性肝炎。
きっと、酒の飲みすぎである。
母も肝炎ではないため、なぜ、私がB型肝炎になったかは不明である。
父が肝炎になって入院した時、そのまま死ねばよいのに、と思った。
まだ、父を憎んでいたから。
その後、父は死なずに、酒の量も減らし、家で暴れることもなくなった。
寡黙な父は、ひたすら働き続けた。
家族のため、借金を返すためである。
そんな父を、私は理解していなかった。
父は、勉強道具にはお金に糸目はつけなかった。
中学の時の塾の教材費が25万円、という法外な金額だったのにも関わらず、何も言わずに、そのお金を用意した。
たぶん、当時の父の給与の2か月から3か月分ぐらいかと思う。
高校受験の際、新しく開学する球陽高校の学校推薦枠に落ちた私は、地元の本部高校に進学した。
1日でも早く、家を出たかった私は、球陽高校に入学すれば、寮かアパート生活を行いたかった。
進学というよりも、そんな理由である。
でも、本部高校で素晴らしい先生や空手部、生徒会、同級生、先輩、後輩にであった。
地元の高校で本当によかったと感じた。
おかげで、3年間の皆出席となり、体調不良の時も、朝練のある時も、遅い時間の時も、父と母が送り迎えをしてくれた。
父と母は、学校の行事にも積極的に参加し、3年生の担任の家庭訪問の際には、家で宴会もして、お酒も飲んで、最後は、当時はなかった代行運転をおこなって、担任の職員住宅まで送り届けた。
高校を卒業し、大学は推薦入学で琉球大学に入学することができた。
きっと、父と母、高校時代にお世話になった担任や全ての人々のおかげである。
大学時代も寮に暮らし、仕送りとバイト、奨学金で生活費を工面した。
大学4年の時は、そのまま卒業するのは嫌だったため、米国へ語学留学をすることを決めた。
お金は300万円ぐらいかかったが、それも全て父がだしてくれた。
そんな父に感謝もせず、出してくれるのが当たり前と感じていた。
米国に留学したい理由は、2つだった。
1つ目は、大好きだった映画を、ずっと観られることだった。
カリフォルニア州に語学留学したので、ハリウッド映画の最新作を毎週、鑑賞できるという想いだった。
実際に、年間300本ぐらいの映画を観た。
2つ目は、死に場所を見つけるためだった。
その当時、米国は人種差別があり、黒人やラテン、アジア人に対する偏見が今よりも強かった。
そのため、危険な場所に行けば、殺される可能性は多くあった。
米国滞在中は、そのような危険地域にも行き、自分自身の死に場所を探していた。
しかし、死ぬことも危険に会うこともなかった。
ある日、ラテン系の街では、危険とされていた場所に、たまたま、バスで寝過ごして到着した。
そのため、ホームステイ先に戻ろうと思い、帰りのバス停を探して、バスを待っていた。
目の前を何台もパトカーがサイレンを鳴らして行き交っていたが、バス停に一緒にたおばあちゃんが大丈夫だから、安心しなさい、と言ってくれた。
別の日、黒人が集まる街では、路上でアルコールやドラッグをやっていそうな、怪しい目のした人々がいるところを歩いていると、知らない黒人から、危ないところだから君の来るような場所ではない、帰りなさい、と注意を受けた。
なので、命の危険がある時に、そこに住む人、出逢った人々に救われた。
自暴自棄になっているときに、1995年の少女暴行事件が沖縄で起きた。
その事件を米国で聞き、私自身は、どうせ死ぬのであれば、人のために死のう、という小さいころに思った想いを想い出した。
その時、私は沖縄のために貢献をして死のうと誓った。
沖縄に戻り、全力で学び、全力で沖縄のためになると思われることは、何でも取り組んだ。
その結果、沖縄21世紀ビジョンを策定することにも関わらせていただき、2030年の沖縄の将来像を描くことができた。
そして、2010年、沖縄県知事選挙に立候補する準備をした。
しかし、結果は、出馬は断念した。
県庁記者クラブで、立候補の記者会見をする前夜。
午前1時から4時ぐらいだったかと思われる。
母からは、あなたが立候補するなら、記者会見場で死ぬから、と言われた。
父からは、お前の子どもたちが理解して応援するまで待つように、と頭を下げられた。
そして、私は断念した。
生きる意味を失った私は、その後の1か月間の記憶はない。
ほぼ、自暴自棄になっていた。
でも、その後、文部科学省のイノベーションコーディネーター賞の若手賞として選んでいただき、日本全国でもコーディネーター活動として認められたことに自信をつけた。
それも、琉球大学で一緒に沖縄TLOを立ち上げ、大学の産学官連携のコーディネーターとして推薦してくれた照屋輝一社長・先生のおかげだと感じている。
照屋先生は、残念ながら、出張から戻り、オフィスでシゴトをしていて帰らぬ人となった。
照屋先生の死で、生きる意味は何かを、あらためて考えさせられ、どのように生きるべきかを、教えてもらったような気がした。
知事立候補、断念から、10年が経過しようとしている。
大きな夢や目標を見失った私は、1日一日を大切に生きようと感じている。
特に、最近、緑内障と肝機能障害の診断がされてから、益々、そのように感じている。
そのため、生きる希望を得るため、ピアノや家庭菜園、バスケットボール、亀を飼育するなど、新しいことにチャレンジしている。
特に、生き物を飼うために、家族で何度も相談し、犬、猫、ウサギ、ヤギまで含めて、飼う条件や環境、様々な文献も調べて、リクガメを家族として迎え入れた。
そのリクガメが、10日間で動かなくなった。
寒くなったので冬眠しているという意見もあれば、暑くなったので夏バテしているという意見もある。
家族の一員として迎え入れたリクガメ(名前は、ミレニアム・ファルコン、略してミレ)は、家族みんなが心配している。
私たち夫婦は我が子のように愛情をもって接しているし、息子たちは新しい兄弟として迎え入れて、世話をしている。
想像してほしい。
家族が一人増えて、家族として迎え入れて、10日で生死を彷徨っているんじゃないか、という不安と恐怖を。
生きる意味とは何なのか。
生かされている意味とは何なのか。
死ぬということは、いつ来るのか。
何かを失うということは、突然くるのかもしれない。
もし、仮に、死が突然きても家族が一緒であれば、きっと乗り越えていける。
明日、朝起きて、ミレが夢から、眠りから覚めてもらいたい、と願っている。
想像してみる。
今回、ミレではなく、私が、突然、倒れて死を迎えようとした際、残された家族はどうなるのか。
私は、家族に看取られながら死を迎えたい。
でも、まだまだ死ねない。
いつか聞いた、父の夢は、子供たち3人の家を建ててから引退したい、だった。
3人の兄弟の家を創り終えた父は、まだ現役で現場にでている。
そんな父を、私は尊敬している。
心から感謝している。
照れくさいけど、父さん、いままでありがとう。
今の私の夢の一つは、通信制で通う京都芸術大学を卒業し、ランドスケープデザインでも、造園でも、2級建築士でも資格をとって、父と一緒に現場に立つこと。
私が設計したもので、父が家を建てる。
それが、私の夢である。
追伸
今では、父も母も家族みんな、仲良しである。
いつまでも家族で支えあって生きていきたい。
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