いくおさんとの夏
1
2020年の夏、新型コロナウィルスの話題で世間が持ちきりだったころ、僕は茨城県北部の山にいた。関東平野の北端から立ち上がるその山からは、「秋晴れの朝は、富士山が見える」というほど広い平野を見渡すことができる。夜になると、人気のない山は漆黒の闇につつまれる。その闇の先には、地平線上にきらめく水戸の街明かりが見える。
この夏、僕はこの山のある集落で、後藤幾夫さんという88歳の男性と過ごしていた。いくおさんは5年前に妻が先立ち、集落にある広々とした自宅に一人で暮らしている。子どもたちはそれぞれ家庭を持ち、県内各地で生活している。僕はここから90キロほど離れた県内の自宅より6月から通いはじめ、8月は月の半分ほどをいくおさんの自宅に泊めてもらっていた。
きっかけは、ひょんなことだった。僕の友人に、いくおさんと親しくしている人がいる。昨年末、その友人に案内されて、いくおさんの自宅を訪ねる機会を得た。蛇のように曲がりくねる山道を、唸りを上げるスピードの出ない僕の軽自動車で登り切ると、空き家の目立つ集落に出る。さらに小道を入り畑の先の家に着く。斜面の一角を平たく削ったところに建つ、農家らしい立派な家が、いくおさんの自宅だ。
慣れた様子で友人が声をかけ、裏口の戸を開けて中に入ると、土間の椅子に腰をかけ、30センチほどに切り分けた竹を燃やして風呂を沸かす、いくおさんがいた。薪で風呂を沸かす世界がこんなに身近にあったことに僕はまず驚いた。挨拶をして、しばらく世間話をした。小柄で線の細い、いくおさんは、外仕事用の厚手のジャンパーを着込み、素足にサンダルをつっかけていた。
「いやぁ、寒いとこご苦労さま」
そう言いながら、僕たちの急な来訪を喜んでくれた。物腰の柔らかい、相手を緊張させない間を作るおじいさんだった。
僕はこの地域の風俗に興味があり、ここから山ひとつはさんだ地域に数年前から通っていた。僕の関心ごとを知った友人が、いくおさんに引き合わせてくれたのだった。この日は風呂を沸かすいくおさんの隣に腰をかけ、地域のことなどを1時間ほど聞かせていただいた。
帰り際、「おれぁ、一人だから、今度酒でも飲みに来なぁ」と言ってくれたのを間に受けた僕たちは、「今度は一升瓶を持ってこよう」と言い合いながら、心地いい気持ちで来た道を戻った。
2
いくおさんが生まれたのは昭和9年。西暦だと1934年になる。2019年に天皇を退位した明仁上皇と同じ学年だということを、いくおさんから何度か聞いた。
炭焼きと葉タバコの栽培で生計を立てる農家の長男として生まれた。終戦間際に徴兵された父親が、配属先の北海道で亡くなり、15歳で家を継ぐことになった。25歳のときに「豆腐屋さんの仲人」で結婚し、間もなく最初の子どもを得た。
農家の暮らしは厳しくて、家計を安定させようと地域の大企業・日立製鉄所へ「職工」として26歳で就職した。以降、戦後復興の只中で、日本経済の中心を担う一人として働き続けた。
茨城県北部の人は日立製作所のことを親しみを込めて「ニッセイ(日製)」と呼ぶ。このころ「ニッセイ」という言葉には、これから来るであろう新しい時代の匂いが十分に含まれていた。「ニッセイ」で働くことは、特に農村で暮らす人にとって、人よりも一歩抜きん出るような、希望あふれることのようだった。いくおさんはそこで三十数年、「職工」として定年まで勤め上げた。
その間も、家では生業の農業を実母と妻が営み、自身は「日曜農家」として会社の休日を利用し携わってきた。定年後は、林業など地域の仕事をこなしつつ、葉タバコから蕎麦へと時代の変化と共に移り変わっていく。
いくおさんが暮らす地域は現在、「蕎麦の里」として知られている。東向きの急な斜面を開いた畑が、蕎麦の育成に最適だとなのだという。茨城県が推奨する「常陸秋そば」の原種となる種は、この一帯の農家が県から委託を受けて栽培している。いくおさんも長い間、蕎麦を作ってきた。
3
2月、いくおさんの言葉を間に受けた僕たちは、一升瓶とたくさんの食材を持って自宅を訪ねた。よく飲み、よく食べて心地よくなったころ、いくおさんから思わぬ「提案」を受けた。
「今年、うちの畑で蕎麦作り、やってみねぇけ?」
いくおさんが農家であることは前述したが、数年前に夫人を亡くしてからは、人に売るための作物作りはやめて、自宅前にある3畝歩(90坪)ほどの畑を耕し、自分が食べて、人にあげられるくらいの野菜を作っていた。他にある2反歩ほどの畑は手を入れられず、荒れつつあった。年齢を重ね、様々な面で老いを実感するなかで、親から受け継いだ畑を荒らすことが何より気がかりだったようだ。離れて暮らす子どもたちは、それぞれが忙しく生活し、畑を手伝うことはできないし、この家を継ぐこともないだろうとわかっていた。
友人が先に声を出した。「やるしかないかなぁ。どう思う?」
僕もいい機会だと思っていた。近隣の地域に通う中で、もう一日この土地とのつながりを得たいという思いが強くなっていた。自宅からは遠いが、やるとなればなんとかなる。蕎麦はお盆前に種をまくと、11月までには収穫できる。短いこの期間、集中してきてみようと思った。何より、またこうして酒を飲みたい。
「お願いします」と友人が先に返事をすると、座椅子に深く腰をかけるいくおさんが満足そうにこう言うのだった。
「はぁ、これで安心した」
そしてコップの酒をぐびりと飲んだ。いかにもうまそうなその飲みぶりに釣られて、僕たちもまた酒が進んだ。いくおさんが愛飲するのが「美酒爛漫」という酒だ。毎晩欠かさず2合飲んで寝るという。
「おれぁ、あれだ。大吟醸なんちゅうよりも、『ビシュランマンッ』。これが好きなんだぁ」
その言葉を受けて、僕たちは「爛漫」を持参し、いくおさんを訪ねはじめた。
4
「いくおさんが家を出るらしい」
友人からその話を聞いたのは、畑仕事が本格化する前の6月ごろだった。友人がいくおさんを自宅に訪ねると、子どもと電話で話すいくおさんの声が聞こえて来た。
「話し合うべぇ」
いくおさんは穏やかに、何度もそう繰り返していたという。年老いて一人で暮らす父親を心配した子どもたちが、条件の良い高齢者施設を探してきたのだった。子どもの一人が暮らす自宅近くの施設に空きが出たそうだった。これを逃すと次はないかもしれないという。
「行ぎたかねぇんだ。おれにはここが一番」。僕が訪ねると、いくおさんはそう言った。
畑を手伝うことになり、少ししてから、いくおさんのお子さんから友人に連絡があった。お子さんたちは、決して悪い気持ちで父親に施設を勧めているのではなかったという。
ある日、一人で暮らすいくおさんが、食器用洗剤と油を間違えて料理に使ったことがあったらしい。火の心配もある。施設行きは、子どもなりの善意であり、親孝行として、自分たちの暮らしの近くにある条件の良い施設で暮らしてもらおうという、気持ちの上でのことだったようだ。ただ、いくおさんは納得していなかった。
「おれぁ、90年、何も悪いことはしてこなかった。なのに、なんで家から出されねぇとなんねぇのかなぁ」
そんなことを言われると、返す言葉がなかった。酒が進むと僕たちは、「いくおさん、行くことないんじゃないの? ここにいましょうよ」と、無責任な言葉をかけるのだった。
「子どもが言うだよ。何かあったら遅かっぺって。そんとき(施設に)入れてって言っても、すぐにうまくいかないんだっちゅうんだ」
いくおさんはまだ一人で家事をし、働き暮らしている。適切なサポートがあれば、納得できるまでここで暮らせるのではないだろうか。
5
ある日、いくおさんと二人でお昼を済ませてお茶を飲んでいると、部屋の奥から一台の一眼レフのフィルムカメラを、いくおさんが持ち出してきた。使えるか見てほしいのだという。もし価値があるようなら、もう使うこともなくなったカメラを売ろうかと考えていた。
だが、数年ぶりに表に出てきたカメラは、レンズにかなりのカビが生えていて、デジタル全盛の今では、期待できる値段がつくとは思えなかった。だから僕は、「まだ使えるから、フィルムを入れてお孫さんや、庭の写真、撮るといいですよ」と言った。
するといくおさんは、ため息をつきながら、こう言うのだった。
「そうかぁ。古いっつうと、ダメなんだなぁ」
肩を落とすいくおさんのすがたに、なんだかとても切ない気持ちになった。
これからまく蕎麦の収穫は11月ごろ、最低でもそれまでいくおさんは自宅にいるだろう。根拠はないが、そんなことを思っていた。僕と友人はで話し合った。この間、時間を作って頻繁にここへ来よう。そして、いくおさんに仕事を教えてもらい、土地の話を聞こう。そうすることで、この土地で90年近い歳月を生きた、いくおさんの人生を肯定できるのではないだろうか。このタイミングに僕らがここで蕎麦を作ることになった意味は、ここにあるのではないだろうか。
6
「その時」は、急にやってきた。
僕が畑仕事のために、数日間、いくおさんのお宅に滞在していた8月最後の週、その日のいくおさんは、午前中に病院の予約が入っていて、お子さんに連れて行ってもらうことになっていた。だが、診察時間の11時になっても、迎えは来ない。
「なんだっぺ。き(来)ねぇなぁ」。そう不安がるいくおさんに、「どうしましたかねぇ」と言いながら、僕は畑に出て行った。
12時近くになり、お子さんが車で到着した。僕は作業の手を止めてお昼を作ろうと母屋に向かった。そこで会ったお子さんに、「今日はこれから病院ですか?」と聞くと、「いやぁ、今日はちょっと、いろいろあって」と話しにくそうな様子だった。
僕は、家にいない方が良さそうな気がして、車で外に弁当を買いに行くことにした。1時間ほどで戻ると、まだお子さんはいるようだったので、家の中に声をかけて畑へ出た。少しして、いくおさんが畑に来た。
「柴田さん、5日に行ぐっつぅんだ」
それが施設のことだとすぐにわかった。
「まぁ、しゃああんめぇ」
力が抜けたように話すその姿が痛々しかった。後1週間しかない。そんなに急に決まるものなのか。そういうものなのか。なんだか、僕も力が抜けてしまった。
僕は、畑作業の遅れを理由に、数日滞在を延ばした。その間、食事は毎回、畑からとった野菜で僕がおかずを作り、いくおさんが炊いたお米で飯を食べ、夜は酒を飲んで話を聞いた。畑には食べきれないほどのキュウリとナス、オクラ、ネギ、大根、カボチャがあり、前に収穫したじゃがいもと玉ねぎが納屋にあった。どれもほぼ食べ放題。毎日、煮たり焼いたりして食べた。
いくおさんは「行ぎたかねぇ」と「しようがねぇ」を繰り返し、どうにか自分を納得させようとしていた。「はぁ、これで百姓もおしまい」。そう言いながら、日々のルーティーンは崩さなかった。
毎朝5時に目を覚まし、廊下を掃除し、仏壇にお茶と線香をあげて手を合わせる。そして昼間は黙々と庭の手入れをし、畑の草をむしり、次にまく野菜の心配をする。
「そろそろ玉ねぎの準備しねぇとなぁ。ナスも秋ナスは身が締まってうめぇんだ」
施設に入る2日前、僕と友人でいくおさんを囲み、やや豪勢な酒盛りをした。僕らは提案した。「いくおさん、畑続けましょう。僕らが施設に迎えに行って、ここに来ればいい。また色々教えてくださいよ。それで夜は酒盛りしましょう。秋には蕎麦の収穫祭、やりましょう」
「いいなぁ。そうすべねぇ。なんだか希望がわくねぇ」
いくおさんの表情が緩む。コップの爛漫を飲み干し、「なんだか、すまないねぇ。ほれ、飲みなぁ。まだあっから」と、こちらのコップにも爛漫をなみなみと注いでくれた。僕はこの夜に自宅に帰らなければならず、爛漫が注がれたコップを横目に、渋いお茶をすすった。
9月5日、いくおさんは施設に入った。その後、教えてもらった携帯には何度かけてもつながらなかった。おそらく、自宅では固定電話を使い、携帯電話を使う習慣がなかったので、どこかにしまったままになっていたか、使い方がわからないのかも知れなかった。
1週間後、折り返しが一度だけきた。着信を見た職員さんがかけてくれたのだ。電話に出たいくおさんは、とてもテンションが高かった。慣れない環境で緊張しているのだろうか。「いやぁ、忙しいんだ」と、仕切りに忙しさを強調した。何をしているのかは、よくわからなかったが、とにかく元気であることがわかって、ほっとした。
職員さんの話では、新型コロナ感染防止のために、入居者の外出は禁止され、基本的に面会も禁止だという。どうしてもの時は、許可のもとで
5分だけ会うことができると聞いた。畑に連れ出すのは当分無理そうだった。
いくおさんは晩酌できているのだろうか。これまで自分の家で、主人として暮らして来た人にとって、この環境の変化はどうだろうか。収穫祭には、また酒盛りをしたい。そう僕たちは思っているが、実現できるかまだわからない。
7
話が前後するが、8月、いくおさんから助言を得つつ、蕎麦作りの素人である僕たちは、なんとかかんとか畑を耕し、種をまくことができた。今年は異常に暑く、雨が極端に少なくて、いくおさんがしきりに「90年近く生きてきて、初めてだ、こんな天気」という天候の中で、蕎麦の発育は大きく遅れていた。こんなに雨が待ち遠しかったことは、今までなかっただろう。
種をまいて2週間が経った8月30日、いくおさんのお宅に滞在中の深夜、待ちに待った雨が降った。僕はまさに小躍りしながら、暗闇の畑に出て行って、雨に濡れる小さな蕎麦の芽が湿るのをいつまでも眺めた。
実際に畑仕事をすることで、斜面の畑作業のキツさを実感し、発芽と生育の無事を祈り、畑を荒らす猪の侵入を心底恐れている、僕たちの不慣れな不安に、いくおさんは的確な助言を与えてくれた。このやりとりが、僕にはとても幸せなものに感じられた。
この土地が直面しているのは、日本中で起きている「過疎」や「高齢化」だ。だが、その言葉の内側には、一人ひとりの生きる姿がある。いくおさんを通じて僕はそれを実感した。
当初、僕は農村で見聞きする土地の話に関心を持っていた。だが、一方で、それはどこか遠い国の出来事と変わらない旅先の風景のような、自分と無関係の世界と感じていた。だが、いくおさんから投げかけられる喜びや、歯痒さ、悔しさという感情に触れるたびに、この土地の過去の物語までが、今、自分の目の前にいる「いくおさん」という人間と地続きにあるのだということを、実感した。
瞬く間に過ぎていったこの夏の物語を、僕はまだ消化しきれていない。10月初め、2週間ぶりに畑に行ってみると、蕎麦は大きく育ち、白い花をきれいに咲かせていた。発芽の遅れをすっかり取り戻していたようだ。生き物の力強さに驚く。順調にいけば、蕎麦は11月初めに収穫することができるはずだ。収穫祭には、いくおさんと「爛漫」で乾杯したいが、それができるかは、まだわからない。時間をおいて、またいくおさんの携帯を鳴らしてみようと思う。
追記
順調に育っていた蕎麦だったが、収穫を2週間後に控えた10月中旬、猪に、ものの見事に全部なぎ倒されてしまった。同じ集落の他の農家も同様で、「全滅」だった。猪の被害はここ数年増加していた。今年は特に被害の範囲が拡大しているという。本人とは直接やりとりできていないものの、いくおさんには、ご家族を通じてお知らせをした。とても残念だが、来年へ向けた対策を「爛漫」を飲みながら、いくおさんと話し合える日を心待ちにしている。
(「アフリカ」2020年11月11日発行掲載より 一部訂正し、写真を加えています)
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