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中学時代の思い出その②

父に懇願して私は能開(現WAOグループ)箕島校に入塾した。入塾前のテストでは英数ともに80点前後。入塾面談では、「この成績では智辯クラスには入れられません。まずは近附(和歌山県二番手校)クラスに入ってください」と言われたが、父は、「うちの子は智辯に行きたいから能開に入りたいと言っている。智辯クラスに入れないなら入塾しません」と強気に出て一番上の智辯クラスからのスタートになった。そこでは同じ学校のS君、Kさん、K君、F君(後に浪人時に下宿で同じになる)、Nさんなどがいた。割と私の中学の生徒が多い形だ。最初に3月に行われた和歌山県の公立高校の入試問題を解いた。リスニングは除いた採点で私は92点だった。90点以上はクラスの掲示板に掲載されたが、私のクラスはほぼ全員が90点以上を取っていた。かなりのレベルのクラスなんだなと感じる。英語と数学には力を入れており、英数では対象的な人選になった。英語は地元和歌山大の学生の方だった。S先生という。指導力のある先生だったと思う。私は英語は全くわかっていなかった。to不定詞もまともに知らず、「to went」と書いて怒られるレベルだったが、S先生の講義で力をつけた。一方、数学は理III落ち慶應医蹴り千葉医後期に進学も中退というF先生だった。「僕は大変頭が良かったので代ゼミの全国模試では1桁順位でした」という話をされていた。講義もかなり難しい。灘高の過去問、高校への数学などを取り扱っていた。私のレベルが低いことを面談で知ると、「佐藤くんは『佐藤の数学』を自力で終えてください。それが終わらないと僕の講義にはついてこれないよ」と言われた。実際に『佐藤の数学』を買ってみると、かなりの難度。合格体験記でもラ・サール(当時のラ・サールは東大100人で開成レベル)合格者が謝辞を述べていた。(こんな難しい参考書を独学でしないといけないのか)と思ったが、東大法学部に入って立身出世する、そのためのステップが智辯和歌山合格、ここでこけてなるものか、と思い努力をした。国語は家庭を持っている兼業主婦の先生だった。国語の私のポテンシャルはかなりあったと思う。できる生徒と思われていた。
そんなこんなで第一回全国模試があった。能開内の位置づけでは駿台の駿台模試と同じで最難関模試である。和歌山県内であればこの模試と智辯模試が看板の模試であった。私は全国模試で社会は全国3番、国語は校舎内3位という成績を取る。みんな驚いていた。歴史と地理は問題ないレベルであった。後年、開成の入試問題を見たところ、中学時代の私の学力でも歴史と地理に関してはかなりの高得点が見込めそうだった。ちなみに合格判定は智辯和歌山はE判定、近大附属和歌山はA判定だった。
そのことで英語の時間でS先生から叱責を受けた。「佐藤、お前は智辯に行きたいんやないんか。智辯入試は英数国や。社会らやっても仕方ないやろ」という具合だ。私は、「社会は一切勉強していませんが、一般常識で解けました」というと、S先生は驚いているようだった。小学生から小学館の漫画日本の歴史を一言一句暗記し、世界地図を読み、新聞を毎朝読む、ニュースも見る、読書もする。と言った習慣ができていた私にとって難関校の社会ですら大した問題にはならなかった。ただ、この叱責を受けて、「なぜ社会を勉強することがいけないんだ。理不尽だ」という思いが強くなった。却って高校に入ったら文系クラスで好きな社会の勉強をして東大法学部を目指すんだ、という思いが固まった。

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