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2019/8-12月 年記

年を記すので年記。
1-7月までは書いた。
2019年、残り90分。
では、

8月
試験が終わって夏休みになった。
28歳が2ヶ月もの夏休みを得ていいのだろうか。
多分いいので、満喫させてもらうことにした。

暇なのですね毛と脇毛を剃った。
どう考えても体毛は必要ないからだ。
amazomプライムセールで買った光脱毛器を使った。
我が足ながらツルツルになったそれは他人のもののようで不思議な気持ちになった。
歳を経るごとに男性ホルモンの影響で濃くなっていくすね毛に覆い隠されていた本当の姿があらわになったのだ。
歳を取るということは何かが本質を覆っていくということである。
すね毛のように簡単に除ければ良いのだが。

暇なので本を読んだり新しい勉強に手を出したりもしてみた。
この上なく贅沢な日々である。
直接的には親や妻のおかげで得た余裕と時間だが、その感謝の念は近い人間関係を突き抜け世界そのものへと到達した。
好きなことができる生き方はこの世をそのまま愛することへと繋がるのだ。
何かを愛することは本質的には世界を愛することだし何かへの感謝は世界への感謝なのである。

あとはそこそこよく働きもした。
1回目の大学時代別にそこまで仲良かったわけでもないやつと毎週のように地方に出張して一緒に泊まっていた。
そんな縁もある。

娘が二足歩行をマスターしたのもこの月だった。
かなり人間になってしまった。
もうこれ以上可愛くなることはないだろうなと思い続けそれを裏切られ続けている日々である。
ペンギンが可愛いと見なされがちだが、それは人間の赤子の歩き方を模倣しているからなのだ。
ペンギンを可愛がるのも悪くはないが、オリジナルへのリスペクトを忘れてはいけない。
歩き出したばかりの赤子へ溢れんばかりの愛を。

9月
まだ休みである。
夏学期の成績発表があった。
そこそこだった。
そこそこというのは客観的に見てそこそこということであり、本人的には大満足であった。
子育てや仕事もありながら、全ての取るべき単位を取ったからである。
単位は2-3年かけて取れば良いと思っていた前回の大学生活から比べれば格段な成長だ。
まあ18歳に混じったんなら良い成績とって当然やろというのは反論の余地がないのだが。

この月は台風がひどかった月でもある。
停電した千葉へお仕事のお手伝いで行った。
東京から1時間で行けるのに街の有様はまるで違っていた。
思ったことは10月の台風でも長野に行ったのでそちらにまとめて書く。
かもしれない。

書くことが薄いのでTwitterに頼る。
9月11日のツイート。

ここで数学(に限らず色々)勉強して金になったりキャリアに役立つ確率は低いと思うけど、面白いことが知れることは一番いいこと
再受験してよかった〜
選択の過剰な正当化の例

今もこういう気持ちで生きてます。
面白いことが一番いいこと。

2019年、残り70分。

10月
正確には9月末からだが、大学が始まり秋学期となった。
駒場の一年生には基礎実験が必修として存在している。
前回の大学生活でも一応単位は取ったわけだが、今回再びやらなけらばならない。
なんもわからんままにやっていた記憶があるが、薄く広く知識が増えた大人となった今ではそこそこわかるなあと思いながらできるようになった。
さらに現場での実務経験が生かされたのか、毎週一番早く実験を終わらせることができた。
20歳前後の集団の中で勝って喜ぶのが自分である。
基本的に早く帰りたいので、素早い実験を実現してくれたペアのY君にも感謝である。

10月もまた台風がひどい月であった。
前述したように洪水被害の長野へ何度か足を運んだ。
給料をもらってのことなのでボランティア精神には溢れていない。
泥だらけの家の中、設備の整っていない避難所、これから寒くなっていく土地のことを思うとつらくなった。

注目すべきこととして、最も被害の大きな地域というのは、ハザードマップなどでしっかり予想されていたのだ。
だからといってそこに住んでいる人たちを自業自得と一律に切り捨てることは当然ながらできない。
土地への愛着、金銭的問題、災害対策一つとってもそこには個人の自由と全体の利益の対立がある。
それは容易にイデオロギーの論争につながる。
自己責任?社会構造の問題?
ぼくにはどうか、と祈ることしかできない。
どうか。

11月
引き続き長野にもちょこちょこと足を運びつつ、オフィスの机を作るバイトをした。
木材をちょこっと加工して塗料を塗るだけで、別に誰でもできることではあるのだが、それでも大工経験あるからやってくれない?と声をかけてもらえるのでなんでもやっとくべきである。
毎日ものを作り続けるのは少ししんどかったが、たまに手を動かしてみると、やっぱりこういうの好きではあるんだよなと確認できた。
たまになんか作りたいのでなんか作る依頼をお待ちしている。

好きにも色んなレベルや色んな質があるよなと思っている。
全てを投げ出しても追い求めたい好きから、好きは好きだけどYouTube見たさに負けてしまうレベルの好きまで色々ある。
低いレベルの好き、ただの憧れに人生の本流を手渡してしまうのはたぶんよくない。

あとは体育の授業で友達ができたりして、だんだんと大学で若者との人間関係が築けてきた。
授業とかでなんとなく仲良くなるのは文系の民が多いのだけど(面白がって色々聞いてくる)やはり理系と文系には集団としてなんらかの性質の差があると思わざるを得ない。
私立文系と東大理系を比べれば明らかだが。
どっちが良いとか悪いとかではないしそもそも文系理系の区別が正しいのかも分からない。
一つ言えることはみーんなかわいいよってことである。

文系理系の区別問題で一つ言うならば、文系の中には「文系」と「理数ができなかったやつ」がいるし、理系の中にも「理系」と「語学や社会ができなかったやつ」がいるということだ。
人文科学の知は言うまでもなく重要である。
たまに聞く文系差別はただ「理数ができなかったやつ」を叩いてるだけではないかと言う気がする。
彼らは何の罪もおかしていないが別に学問の価値とはなんの関係もない人々だ。
それによって人文科学全体を叩けると思ってるやつはちゃんと人文科学を学ばなければいけない。
2019年を振り返っているのではなかったのか、何の話なのだ。

2019年、残り40分。

12月
ぼくは時々思うのだけど、12月は今年よりも来年に近いのではないか。
もちろんどこかに区切りを作らざるを得ない以上、一つの期間には始まりと終わりが存在してしまう。
ただ14時59分は14時台というよりもはや15時にアイデンティティを感じるだろうし、3月31日生まれはほとんど下の学年のはずだ。
そういう意味では12月は来年と言ってもいい可能性がある。
そんな12月を年内に振り返ってしまうのはなんとも気持ちが悪いのだ。
長すぎず短すぎないある程度の時間を置いて過去を総括するからこそ、無限の体験の連続の中から意味のあるインデックスが作成できるということだろう。
12月を年内に振り返るには12月の中でそれを行わなければならない。
それは今を今振り返ることに他ならず、現在というものの唯一性を愚弄している。

来年もこうして適当なことを言える余裕を持ちたい。

まとめ
世界に感謝の念を抱き世界を愛した一年でした。
それはつまりこれを見ているあなたにも感謝しあなたを愛しているということに他なりません。
また来年もやっていきましょう。
ことありらいよろ(高2のときから言い続けている今年もありがとう来年もよろしくの略、今年で12年目)!

2019年、残り20分。
ドラマチックラブ
栗林

東大出てても馬鹿は馬鹿