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案ずるより生むが易しは男が作ったことわざ

という話を妻としました。
案ずるほうが100倍楽だったね。

こんばんは、栗林です。

赤ちゃんが産まれて3週間が経ちました。
一言で言うと、かっわいいです。
ねこって結構可愛いと思うんですけど、その3倍くらいは可愛いです。
今のスキルとしては寝る、泣く、おっぱい飲む、排泄する、なんかただ目開けてるの5つくらいですけど、それなのに、それ故に可愛いです。

そこそこ物事を客観的に見れる方の人間だと思って生きてきたんですけど、インスタとかでほかの赤ちゃんの写真見てるとどう考えてもうちの子の方が可愛いなってなるので、どうやら違ったようです。
ただ産まれてちょっとしてからうちの母が会いに来て「そう思わんと子どもなんか育てられへんよ」って言ってたのでそういうことなんでしょう。
写真とか見返しても全く可愛くない赤ちゃんだった僕がここまで生きることができたのも人間のそんな認知の歪みのおかげですね。
この赤ん坊は下の中かな、とか冷静な判断を下されたら餓死していたかもしれません。
錯覚、バンザイ。

妻も産後とくに落ち込んだ様子もなく元気にやっているので一安心です。
まあいつ何がどうなるか分からないので注意しておきたいですが。

赤ちゃんにも今のところ目立った問題はなく、よく寝るし、心の底からの安堵と同時に、果たして何らかの問題があったとして僕はどうしたのだろうと思ったり、根底のところで「普通の」赤ちゃんを望んでいた自分に気づいたりして、なんだかなあと思うこともあり。
そもそも人生において大きな不幸を経験していないというのがなんとなくどんよりした影を落としてる感があって、きっといつかそういうことが起きるのではないかという予感があって。
でもそれだけに、だからこそ、無事に出産が終わったというのはなんとも言えず安心した気持ちです。
妻えらい。
子ども出したと思ったら今度は母乳でるしハイテクすぎん?
これから色々あるんでしょうけど、まあやっていくしかないですね。

で、やっぱり子どもができると親としての責任っていうものがよく言われるし確かにそんなものが降ってきたような気がするんですけど、一体何に対する責任なんでしょう。
まず生き延びさせるというのは疑う余地もなくありますよね。
生まれてきたことが本人にとって良いことなのか悪いことなのかはわからないですけど、僕らにとってはすごく幸せなことで、そのエゴで生まれてきた子にとって産んでおいてそこから健康な生活をさせられないというのは不幸でしかないわけで、生まれてきた以上その生をできる限り健康で穏やかなものに保つ責任は当然あると思います。
ただそこから先、僕たちは何をすべきで何をしないべきなのか。

栗林家の育児方針ver1.0.0.

今のところ育児書とか全く読んでないのでただただ自分の経験と予想でしか言えないのですが、結局親が子に与えられるのはまとめると2つで、帰る基地と方法論なのかなというのが今の考えver.1.0.0.です。

まず物理的、経済的、精神的にいつでも帰れて受け止めてもらえる場所を作るということ。
やっぱり何をするにしても基地は必要で、エベレスト登る人だってベースキャンプを作るわけで、まあベースキャンプがどういう機能なのかとかはあんまりよく知らないですけど、帰る場所というか腰を落ち着けられる場所は誰しも求めてるってことだと思うんですよね。
物理的なことだけじゃなくて精神的にも。
そういう基地を自分で作っていくのが社会において大人になるということだとは思うんですけど、やっぱりこの世界でそういう居場所を作るってのは何らかのトレードオフなわけで、対価はお金だったり恋愛感情だったり友情だったりするので、それらは全部絶対的なものではなくて、この辛い社会を生き抜く上で子供にとって可能な限り絶対的な基地でいたいなという思いがあります。
絶対的基地が1つあればこそ新しい安定した基地が築けると思うんですよね。
まあそんな僕もやや自立したと見せかけてやっぱり親が作ってくれた基地に片足残しながら安心感を得ているわけで、そんな風にして安心を繋いでいけたらいい感じだし、この恐い世界に産み落とした以上その安心感を与えるのは義務であり果たすべき責任なのかなと思う次第です。
ここでの親の義務を三カ条にまとめました。
カネ稼ぐべし
精神安定させるべし
ただ受け入れるべし

つぎ、方法論。
もう少し若かった頃は、子どもができたらなんらかの絶対的な哲学を授けられる大人になりたいなと思ってたんですけど、それは最近不可能だと気づいて諦めました。
絶対的に確かなことなんて何一つないし、社会がこれだけのスピードで動いてる中でするべきことするべきでないことを与えるのは押し付けでしかないなと。

そうなると、親が子に与えられるのは何をすべきかどう生きるかという哲学ではなくて、こういう時はこうすると上手くいくっていう方法論だけなのかなと思いました。
親が子にというか人が人にって言ってもいいのかもしれません。
例えば人には優しくしなさいっていう正しそうな言葉も、優しくしたからなんなのか、優しくしたら相手も優しくしてくれて、それがなんなのかって言われたらもう返す言葉がないわけです。
僕は弱い人間なので人から嫌われるのとかめちゃくちゃ怖いし、優しくされたり感謝されると嬉しいんで嫌われないようになるべく親切にいようとは思ってるんですけど、子どもはスーパー強い人間で周りがどう思おうが関係ねえよタイプだった場合、周りに優しくしなさいって言葉は何も響かなくて押し付けにしか感じないかもしれないんですよね。

そうなると、僕が与えられるのは親切にするのはいいことだっていう哲学じゃなくて、街で扉の反対側に人がいたら開けて待っといてあげると印象いいよとか、手紙をもらうと人は嬉しいものだよ、とかのテクニックしかないのかなって思うんですよね。
こうするべき、ではなくて、使いたい時がきたら使えるような。
社会が変わってく中で僕が得た方法論が次の世代でも役に立つかどうかは分からないですけど、押し付けられた哲学よりはずっと役に立つのかなと。

天才じゃない限りそういう方法論を知らないとできないことってジャンル問わずあると思うんですよね。
スポーツで正しいフォームを学ぶとか、モテるための振る舞いとか、音楽のコード理論とか、天才じゃない僕は本読んだり人から聞いたりしてだいぶ色んなことが人並みにできるようになってきたんじゃないかと。
それで逆説的なんですけど、方法論を学んでできることが増えると行動する気が起きて、行動すると自分のこととか世界のことがほんの少し体感的に理解できる感覚があって、結果的に自分なりの哲学がおぼろげに浮かび上がってくる、のかもしれません。

街でドア開けて待っといてあげたらおばちゃんにありがとうと言われた、という経験から親切にするのはいいことだなあって思うかもしれないし、うるせえババアって思って他人に親切にするより自分の道を最短距離で走ることにしか意味を見出さないかもしれないし、どっちがいいよってのは僕は言えないけどその方法論を授けたことでより自分がくっきりしてくる、みたいなことです。
まあドアは開けといたほうがいいし人には親切にしたほうがいいとは思うんですけど。

だから問題解決の方法をある程度与えるってのは責任の一つかなと思います。
逆に言えば変な押し付けの思想から子どもを守ることも必要だし、より広げて言えば僕では与えられない豊かな方法論とか技術を学ぶための機会を作ってあげることも必要なのかもしれません。

っていう、0歳0ヶ月でまだ泣き声でしか意思表明できない君に一方的に僕が思うことでした。
こんなこと言っててもそのうち君が僕の思い通りにならなくて、キィー!友達とは仲良くしなさい!とか言うことは絶対あると思うんですけど、まあ、君が産まれてすぐの頃にこんなことを考えた僕がいたというその記録に。

あとは日記
・1-2週目はじじばばが起きてるとこに会えないと嘆くくらいめちゃくちゃよく寝てた
・3週ごろからだんだん寝なくなりました
・髪が黒い、多い、太い、くせ毛
・抱っこで寝てくれる時の世界に認められた感
・我が子でもミルクと母乳しか飲んでなくてもうんこはくさい

おわり

#育児

東大出てても馬鹿は馬鹿