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話を作る話

上の子と寝る時、いつからか毎晩物語を作って話さなければいけないことになった。
子どもがお題を出して、その話を僕がする。
例えば今日は「シマウマのアイスクリーム屋さんの話」と「ゾウがバナナを食べる話」と「ウサギがボール遊びする話」の3本立てだった。

もちろん僕にストーリーを作る才能などなく、ゾウが家を出て色んなところを歩き回り山に生えているバナナを見つけて食べるのがオチ、という程度の話をしているだけなのだがそれなりに楽しみにしてくれているようで、子どもが作品の質を正確に評価できるようになるまでは続けてやりたいと思っている。

基本的には1日に話は2つ、というルールで運用しているのだが、子どもというものは飽きるということを知らないためにもう1つやってくれ、と言われることも多い。
そもそもは妻と寝たがる子をなんとか寝室に連れて行くための苦し紛れの誘い文句として1日1つ話をしてあげると始まったはずなのに、いつの間にか1日2つが標準になってしまった。
一度上げた生活水準はなかなか落とせないし、一度上げた給料を落とすわけにはいかないのだ。
とはいえその作戦は成功し、子どもが夜一緒に寝る人間の第一選択肢は妻から僕へと移動した。

そうしてもう1つ話をしてくれとねだる時、子どもは「お話して」ではなく「もう1個読んで」と言う。
それなりに文字も覚えてきたとは言え、基本的に本は親に読んでもらうもので物語は聞かされるものであるため、本人の体験としては「読む」と「作って話す」はまだそれほど明確に区別されていないのだろう。
ただの言い間違えというか幼さ故の未熟な言葉遣いの話ではあるが、大人としては存在しない本を読んでと言われたようで少し不思議な気持ちになる。

用法として間違っている言葉であっても、そこから自然となんらかのイメージを抱いてしまう程度には言語を使ってきた。
その場しのぎに下らない(けれどその背景に愛が溢れている)物語を「話して」いると認識していたのが、何かを「読んで」いるような気持ちになってくる。
その何かとは僕の脳で、経験で、創造性であるということになるのかもしれない。
プリントされた文字を読み上げることだけが読むという行為であると思ってきたが、未だ物理的な形になっていない、けれどどこかからやってきて口に出てくる言葉、も、広い意味では何かを読んでいる、脳みそのどこかに文字とは違う何らかの形で書かれている、ような気がしてくる。

そしてそうした時に僕は僕の脳みその中身だけを読んでいるわけではなく、聞かされている子ども自身もまた重要な書き手になっている。
「その名前は前も聞いた」「次はキリンじゃなくてワニがやってくるんだよ」そうして僕が読んでいる物語を書き換えていく。
そもそも話のテーマを決めているのは子どもであり、1文目は彼女が書いているとも言える。

子どもに話を作って聞かせてやっている、と思ったら毎晩共著を2-3冊書いていた、という話だった。

出版のお話お待ちしています。
年間1000冊も夢じゃないです。

東大出てても馬鹿は馬鹿