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クジラを見に行った

クジラを見に行った。
千葉の海岸に死んだクジラが流れ着いたとインターネットで見た。
千葉は、行ける。
千葉は行けるので、朝起きてきた子どもに幼稚園を休ませて、車を借りた。
クジラを見ることより優先すべきことはあまりないから。
昔からクジラ見物は三親等の葬式と同じくらいの優先度にすべきだと言われている。

大体の地名は把握していたものの、詳細な漂着地点はよくわからない。
分からないけど出発した。
なんといってもクジラはでかいから、近づけば分かるに違いない。
アクアラインを超えて、チーバくんのお尻の方へと走らせる。
目的地近くの道の駅で車を止めて、店員さんに「クジラどこですか」と聞いた。
「サーフショップの前あたりですよ」と教えてくれた。
クジラはでかいからどこにいるのか皆知っているのだ。
おれは小さくて良かったなと思った。

教えてくれたサーフショップは道の駅から徒歩圏内だったので、歩いて向かった。
1月にしては暖かい日で、冬の海とはいえ上着がいらないくらいだった。
波打ち際に横たわるクジラを遠目に発見して盛り上がる大人をよそに、子どもたちはせっせと貝殻を拾っていた。
人生のキャリアが2-5年しかない場合、綺麗な貝殻とクジラの珍しさは大体同程度になる。

走れば1分ほどの距離の砂浜を、貝殻を拾いながらゆっくり時間をかけてクジラの方へ近づいて行った。

横たわるクジラは目を閉じて、波が打ち寄せるたびに全身がかすかに揺れていた。
表皮は剥がれ始め傷ついたヒレが痛々しかったが、それはまごう事なきクジラだった。
クジラだ、と思った。
心配していた臭いはそれほどでもなく、少し臭う漁港くらいのものだった。

勝手な人間の意見ではあるが、閉じられた眼に深い洞察を感じる。
これはゾウの眼にも感じるし、ラクダの眼にも感じる。
ウシの眼にも少し感じる。
でかいってのは深いってことかもしれない。
ラクダもウシも結構でかいから。

圧倒的にでかくて、圧倒的に死んでいた。
状況としては圧倒的に死んでいるのだけど、死んでいるという感じはあまりしなかった。
でかすぎるシステムの死には気づくのも時間がかかるのかもしれない。
でかすぎて、ほとんどの場合その生の全てを視界に入れられないから、そもそも生から認識が難しいのかもしれない。
なんにせよ、でかすぎる生き物の身体があった。

クジラだよ、と言うと一通り眺めた後に、子どもたちは貝殻探しに戻っていった。
高い確率でこの日の出来事は子らの記憶から消えてしまうだろう。
クジラパートは往復4時間の移動に対して5分程度であったから。
せめて暖かな冬の海の日差しが言語化されずとも懐かしい感覚のアーカイブとして、身体のどこかに引っ掛かっていたらいいなと思う。
だけど本当は、昔幼稚園休んでクジラ見に行ったよね!と覚えていてほしい。
俺は11mのクジラをじっくり眺めてめちゃくちゃ楽しかったから。
でかい生き物は本当にすごいことだから。

夏には近くで獲ったクジラの解体も見れるらしい。
クジラ漁の是非に思わないことがないでもないが、善悪を無視した野次馬根性、もまた、全て否定されべきものでもないだろう。
またデカい生き物を見に行きたいと思った。

最後に遠くからクジラに手を合わせて、砂浜をあとにした。
クジラは手を合わせて欲しいとは思っていない。多分。
クジラの都合を考えない自分勝手な人間たちは帰っていった。
クジラはできれば死なないで欲しい、クジラの幸福を生きて欲しい、死んだら見せてほしい、あとできれば乗りたい、人間の業。

おわり

東大出てても馬鹿は馬鹿