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年をとること

娘がもうすぐ一歳になる。

産まれてしばらくは寝かされた場所から動けないし、目もそんなに見えてなくて、行動には泣くか寝るかくらいのバリエーションしかないわけで、気持ち的にはめちゃくちゃ愛おしい植物を育ててるような感じだった。
もう少し時間が経って寝返りやハイハイが始まると、部屋の中を動き回って、呼んだら来るようになったりして、めちゃくちゃ愛おしいペットを飼ってるような感じになってきた。
最近はついに二足歩行を始め、鉛筆で紙に線を描くことができたり、好きなおもちゃとそうでもないやつが出てきたり、言葉にはならないもののこちらに何らかの要求が伝わってくるようになり、ようやく人間一人育ててるんだなという実感が湧いてきた。

とはいえ、日に3回くらいはこの可愛らしい子は一体どこから来たんでしょうという気持ちになるのも事実で、妊娠検査薬が陽性になったことも、妻のつわりも、お腹が大きくなっていく過程も、出産のその瞬間も、この目で目撃はしているわけなのだけど、どういうわけで今ここに自分とは異なる意識を持った、半分は同じ遺伝子を持つ、愛おしい存在がいるのかは僕の、あるいは人間の理解力を超えた問いなのかもしれない。

ただ愛することと肯定することだけをやっておけば良いだろうというくらいの思いで子育てをやっているわけだが、1歳を前にして娘の脳はすでにある程度の環境適応を終えているらしい。
例えば日本語のリズムや音韻はもうしっかりと脳に刻まれていて、他の外国語とはしっかり区別ができるとのことだ。
もう日本語と同じように外国語を高いレベルで「自然と」身につけることはできないということになる(もちろん努力をすれば可能ではある)。
ぼんやりと忙しく幸せに過ごした1年であったが、人間の残酷な可能性の切り捨ては始まっているのだ。

可能性などという曖昧な概念だけではなく、脳の中では物理的にシナプスが刈り込まれているらしい。
シナプスというのは神経細胞と神経細胞をつないでいる部分のことだが、生後8ヶ月まではシナプスは増加の一途を辿る。
その後はどんどん刈り込まれ、効率的な配線になっていく。
一度増やした可能性を環境に合わせて切り捨てていく、というのはあまり科学的な見方ではないけれど、なんだか人生そのもののようである。

そういうわけで娘と1人の人間として対するようになり、可能性というあまり好きな響きではない概念について考えることも徐々に増えてきた。
そうすると自分のエゴに自然と気がついてくることになる。
ちゃんと愛してあげられればあとは好きに育てばいいと思っていたはずなのに、娘が紙に鉛筆で何かを書けば、どうか賢く育ってほしいと思っている自分がいることに気がつく。
自分が賢いと思ったことはほとんどないが、受験勉強だけはそこそこできたわけで、なんとか生きられているのは勉強ができたからだという認識はある。
当然ながら勉強ができるようになることだけが人生の生き抜き方ではないし、唯一の価値でもないことは分かっている。
また、自分の人生が一番素晴らしいものだなんてことはどう転んだって言えるはずがない。
それにも関わらず、何故か、娘には自分と同じような、少なくとも方向性の近い、人生を歩んでほしいと願ってしまっている部分がある。

それというのが全く年をとってしまったということなのではないかというのが今日の主題である。
もう少し若かった頃、といってもほんの数年前は、自分の人生なんてつまらなくて、自分なんて価値のない人間だと言い切ることができたように思う。
音楽や、美術や、数学や、なんかそういった特別で際立った才能、あるいは心から打ち込めることがある人間こそに価値があって、それがない自分などは取るに足らない存在だと思っていた。
それがどうだろう、最近では、俺の人生は俺なりにそれなりにいいもので、凡人ではあるけど別に存在はしててもいいだろうと思い出しているのである。
もちろんその転換それ自体は、それによって実際自分がものすごく生きやすくなったわけだし、「大人」になったとして褒められることかもしれない。

ただその変化が何故起きたかというと、そこそこ長いこと生きてるからというだけのことではないかという気がしている。
10代の頃は、自分の人生が下らなくて価値がないと判断しても、それで無駄ということになる時間は大人に庇護されてきた10数年だけのことであるが、今その判断を自分に下すとなると、30年近い時間とそれなりにつぎ込んできた労力が否定されることになる。
自分が自分の生き方を肯定できるようになってきたのは、自分の人生を否定するような怖いことはもうできないというだけの話なんじゃないだろうか。

要するに、歳を取って長く生きてしまったが故に自分の人生を無駄と切り捨てることができなくなり、気づけば価値があるものと考え出してしまい、その生き方を今まさに娘、あるいは次世代に押し付ける老人が誕生しようとしているのではないかということである。

これで得するのはなんとなく生きやすくなった自分だけである。
判断をやめ、あるものをあるがままに受け入れる必要がある。
凡人にできることは愛することと時間をかけることだけなのだ。


おわり

東大出てても馬鹿は馬鹿