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色んなことがどうでも良くなって

ここ一年くらいで色んなことがどうでも良くなってきた。

じゃあその前は何がどうでも良くなかったのかというと、もう思い出せない。
自転車に乗れなかった頃の感覚がわからないような感じだが、むしろ何かに乗れなくなって乗れていた感覚が分からなくなったと言ったほうが正しいかもしれない。

結婚したこと子どもができたこと仕事をやめたこと歳をとったこと。
最近一気に色んなことが変わってしまったから何のせいとは言えないのだけど、心当たりが少しだけある。
それは脳のことを少しだけ勉強し始めたことだ。

何かが本質的にどうでもよくないというのは、その何かに価値を見出すということと言える。
金でも神でも生命でも幸福でも平和でもいいのだけど、何かに本質的な価値をおくということは、それがただの物質や現象であることを超えて、この、今の、世界の外側にその何かの神殿があるということになる。
見えないし触れもしない、存在を理論的に証明することもできない、ただ信じることしかできない。
意識的にせよ無意識的にせよそんな神殿の存在を信じることができた時、何かは価値を持ち、本質的にどうでもよくないことになる。

僕も何かの神殿を信じていた。
それは形すらなく、そこに何かがあるということがぼんやりと分かるだけのものだったかもしれないが。

気付いた時には神殿はなかった。
正確に言うならば、ないかもしれないなと思うようになった。

ほんの少しだけ脳のことを勉強するようになった。
今分かっていることはとても限られているし、どうやったら分かったと言えるのかもまだあんまり分かってない、というようなことが(多分)分かった。
しかし人間はすごいのである程度の観察と研究の蓄積はあり、そこにこの世界を超えた何かが見つかったという話はないし、脳が非常に特殊なシステムであることは認めるにしても、その辺の砂や水と同じルールに支配されてることは恐らくこの先も否定されないだろう、というようなことも(多分)分かった。

そりゃそうだろという感じではあるし、逆にまだ物質を超えた何かが見つかるかもしれんやろという意見も当然ある。
それでも、これはただ怠惰なだけなのだが、僕はほんの少し見た範囲ですぐに諦めて結論を出してしまう傾向がある。
ので、そうか人間も結局はルールに従う粒(あるいはひも)の集まりというだけのことだな、ということになった。
ということになったのでぼんやりとした神殿はぼんやりしたまま崩れ、今ではほとんど見えない。
これは全く論理的な結論ではないし、ある意味で信仰と言った方が良いくらいの態度(神殿がなくなったのに?)である。
一言で言えばおれは唯物論者になりかけだよということだ。

そうなると世界が灰色に見えてくる、ということはなく、秋晴れに心は弾み娘には限りない愛おしさを感じる。
まだまだ人間のことを脳のことを知りたいし、広い数学の世界も覗いてみたい。
金は欲しいし愛されたい。
何も変わらない、何も変わらないけど、全てが本質的にはどうでもよくなってきたというだけの話である。

おれがどうでもよくなってきたという人にとってはマジでどうでもいい話。

全てがどうでもいいのに生活を続けインターネットに何かを残すのは全く矛盾することではない。
どうでもいいおじさんは今日も生きる。

東大出てても馬鹿は馬鹿