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3/27 日記

思考がまとまらず何にも書く気がしない、そんなときは日記を書こう。
レコーディングダイエットみたいなものである。
日記を書く。

暖かい日が増えてきた。
3月4月のフワフワとした気候や雰囲気が苦手だったが単純に寒さの嫌さが上回ってきたので素直に春の到来を喜べるようになった。
これも一つの成長である。

COVID-19。
こんなことになるなんて、というには日本の状況はまだ早いかもしれないし、こんなことで終わってくれればそれに越したことはないのだが、それでもこんなことになるなんてと思わずつぶやかずにはいられない事態である。
弊学も対応に追われているようで、毎日のように新学期の予定や授業方法の変更が知らされている。
当初は初めの1-2週間だけはキャンパスで授業を行う予定であったが、それも中止となりはじめから完全オンライン化という対応になった。
もう2年生だしそもそも2回目だし、僕としてはまあそれなりに勉強ができればなんでもいいという思いではある。
しかし東大に受かったと地方から勇んで出てきた若者への仕打ちがこれかと思うと悲しくなってしまう。
もちろん止むを得ないし誰も責められないし対応に当たっている教職員の方には頭が下がる思いであるが。
引きこもって得られるものもあるだろう、それに別に何かを得るだけが生きるということではない、気高い引きこもりになろう。

社会の話題に乗るのはちょっとダサいし全然関係ない話をした方が自分を持っててカッコよくみえるかなという打算から、コロナの話はするまいと思っていたがなんだかんだで書いてしまった。
教訓、社会の流れに己の思考を明け渡すな。

そういうわけで引き続きコロナの話をする。
こんなものは人々が数週間活動を完全にストップして家に引きこもればそれだけで終わる話なのだ。
しかしもちろんその間にも医療サービスやインフラは維持しなくてはならない。
それに関わる生産や物流も止めることはできないだろう。
資金繰りが厳しくなってくる個人/企業も出てくる。
医療やインフラの原資だって経済活動が生み出す税金だ。
この社会を維持するためには、全ての活動を完全に止めることはほとんど不可能と言っていい。
当然の話である。
僕たちは複雑で止まることのできないシステムの中を生きている。
なぜ止まれないのか。

それは元をただせば我々自身が止まることのできない心臓を抱えているということに根本原因があるのではないか。
1ヶ月だけ心臓を止めておき、またその後何事もなかったかのように生活を送れるとしたら、社会システムだって止めることは可能だろう。
しかし僕たちの体はそうはなっていない。
一度死んだら死にっぱなし、生まれたら死ぬまで生きっぱなし、である。
止まれないのは俺たち自身だ。

そろそろしばらく死んどける技術の開発が待たれる。
たまにはちょっと死んどきたい(でもまたそのうち生き返りたい)時もあるよね。

それでは静かで孤独で誇り高き引きこもり生活を。

東大出てても馬鹿は馬鹿