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がらがらがっしゃん

すーっと自室の扉の隙間から肉じゃがの匂いがした。窓の外の光はいつの間にかなくなっていて、ああもう陽が落ちたんだ、と気が付く。夕刻の風は冷たい。夕刻だと気が付いてから風が冷たくなったような気がする。布団を深く被る。

メガネはきっと頭の右側に置いたので踏まないように注意しよう。いや、立つ前にかけてしまえば踏むことはないのだから、そうしよう。と手を伸ばすものの右手にメガネは無くて、代わりに軟式ボールがあった。ゴムの匂いが臭い。匂いはすぐに手に移り、手が臭くなる。

寝転びながら頭上に軟式ボールを投げる。投げる時にできる限り回転を加える。その方が真っ直ぐに上がり、落下した時には手にすっと収まる。回転が手のひら中ですっとなくなるのが、気持ち良い。あの一瞬の摩擦が生き物を手中に収めた心地を思い起こす。ゴム臭い、そんな生き物だ。暗いはずだった部屋は、目が慣れてきたおかげで、ボールはぼんやり見える。

あってもなくても、何も変わりやしない毎日だ。

回転のない球を上に投げる。回転がなくなる分、縫い目が不規則な動きになり、落下の具合が分かりにくい。手中に収まる感覚もいまひとつ良くない。回転のない球はできる限りスナップを効かせず、肘で押し出すように投げる。それがコツだ。

がらがらがっしゃん。なんだなんだ。下の階で皿が割れた。ああ、と音のない声を出す。それと同時に球を投げると、それは真上に飛ばず、後方、つまり頭上に逸れて壁に当たった。そして跳ね返った球はがしゃりと音を立てて、そこにメガネがあったことを私に気が付かせる。細い縁の丸メガネは、曲がったのか、割れたのか、無事なのか、暗いのでよく分からない。別に分からなくてもいいや、とピンボールのように跳ね返った球は左手に収まり、今度は左手で空中キャッチボールを行う。天井とギリギリのところを狙う。かするくらいが理想だ。私は何度か成功した後、再び暴投した。今度は蓋を開けたままのペットボトルに命中した。中身がこぼれたのか、無事だったのか。別にどちらでも良い。

軟式ボールはどこか消えた。いつかまた現れるだろう。そうだ、肉じゃがは温かいうちに食べた方がきっとおいしいはずだ。



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