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すべての奇行に意味がある 〜30年の林大記〜【後編】

前編・中編は↓コチラ



得意なマネジメントのポジションを任されるも、どこか物足りなさを感じ1年でポジションを下りる

エンジニア派遣の事業に配属されてからは、エンジニア担当の営業メンバーと集客を担当するマーケティングチームのマネジメントを任されることになった。

まずは属人的に動いていたメンバーの動きを定量化・管理するために、スプレッドシート等営業が使うツールを整えた。

また、オウンドメディアの立ち上げで培った知識、経験を活かし、フリーランスエンジニア・クリエイターの集客をするサイトのSEO改善・サイトリニューアルを進めた。

社内メンバーのマネジメントをしながら、SEOコンサルタントの方や開発チーム、デザイナー、ライター等々さまざまなステークホルダーを巻き込みながらプロジェクトを推進していった。

新しい業務へのチャレンジは楽しく、おもしろかった。

しかし1年くらい経つと、マネジメントやプロジェクト推進ばかりをしていて、自分の介在価値があるのか、悩むことが増えた

私は手をほとんど動かさず、さまざまなステークホルダーの方に動いてもらいながらプロジェクトを進めることに価値を感じなくなっていた。

というのも、ちょうど社会人3年目で1つの節目であると考えていた私にとって、自分の専門分野として自信を持って言える領域がないことが劣等感に感じていたからである。

今考えれば、「プロジェクトマネジメント」「事業開発」と自信を持って言える仕事をしていたのだが、案外自然にできてしまうことは自分で気づかずに、むしろコンプレックスに感じてしまうことがある

当時の私は、まさにそれに陥っていた。

携わっていたプロジェクトの1つに、おでこ代表が考えた新しい事業アイディアを立ち上げるプロジェクトがあり、自分もそれに関わっていた。

定時までは通常業務を行い、定時をすぎると新規事業のアイディアを検証するためのインタビューをしたり、ワイヤーの作成をしたり、エンジニアとコミュニケーションをしてサービスに落とし込んでいったり、ステルスで新規事業の立ち上げを行っていた。

企業からスカウトが来たらAmazonギフト券に還元できるポイントがもらえ、カジュアル面談をするとさらにポイントがもらえる、というポイント還元型エンジニア特化の転職サイトである。

ちょうど、サイトリリースをするタイミングでデロイト トーマツ、ドリームインキュベータ出身の方がCOOのポジションで入社してきた。直前にはシリコンバレー発のスタートアップで事業開発をしていた方だ。その方にバトンを渡し、新規サービスの責任者として推進していくことになった。

てっきり自分自身が再度責任者となって大きくしていくと思っていたので、自分が携わらずに事業が進んでいくのを横で見ていた私は複雑な気持ちだった。

確かに自分より業務経験が豊富かもしれないし、成功の確率は上がるかもしれないが、0から立ち上げたサービスのオールを他人に握られ、それを横で見続けることはできなかった。

またマネジメントをすることから離れ、専門的な領域を身につけたいと考えていた時期でもある。オウンドメディアの立ち上げや、SEO観点でのサイトリニューアルを行っていた経験から、マーケターとしてのキャリアをつけようと考えていた。

ちょうどエンジニア派遣の事業部が、過去最高の成約数を上げたタイミングで新規事業部に移動したいことをおでこ代表に伝えた。

おでこ代表は嫌そうな顔をしていたが、結果が出ている上で主体的に言ったことはやらせてくれる方だったため、次の月から異動することになった。


ひたすら行動でカバーする自分と、思考をしながら着実に進むCOO

実は自分にとって初めての新しい上司だった。これまでおでこ代表の元、ビシバシと厳しく指導され、ビジネスの基礎を叩き込まれてきた。

他社でキャリアを積まれてきた人の仕事のやり方を見たり、フィードバックを受けるのが半ば楽しみだった。

そして、新規事業立ち上げのリベンジ戦でもある。マーケターとして、サービスの改善・運用・ユーザー集客を担当した。

以前ほどは広告予算がないため、いかにコストを抑えてユーザーを増やすか、考えて行動をした。

Twitterのプロフィールに「エンジニア」と書いてあるアカウントをリスト化。フォロワーの多い順に片っ端から連絡を入れた。

過去運営していたサービスの登録者に、新規サービスにも登録するように片っ端から連絡を入れた。

行動力はピカイチだったが、その自分を見ていたCOOは、評価面談の時に私に言った。

「林くんは、思考力がないよね。考えないと。」

「いや、自分が考えすぎなんでしょ!」

と口から出そうになるのを抑え、自分の思考力の無さに絶望したのを覚えている。

もし自分にもっと考える力があったら、閉じてしまったエンジニアの転職サイトもうまくいっていたかもしれない。会社がもっと売り上げが上がり、みんなが苦しむ必要がなかったかもしれない。離職者も減っていたかもしれない。

そんなことが頭を駆け巡った。

そのCOOは、確かにめちゃくちゃ考える。言っていることも大概合っていたし的を得ていた。

しかし、事業が立ち上がる前に、会社の資金が底を尽きた。


会社がM&Aされることに。大きなショックのかたわら、M-1グランプリに出場することを決める

ある日、おでこ代表とCOOに会議室に呼ばれた。

何を話されるか、私はある程度悟っていた。

新規事業部に移る前までは、経営会議に参加していたため、会社の資金がとんでもないスピードで無くなっていることを知っていたからである。

「上場を目指していましたが、会社をM&Aすることにしました。エンジニア派遣の事業部のみです。新規事業部は会社を新設分割して、そちらで頑張ってもらうことにしました」

ストックオプションを付与されていた私は、上場して大金を手に入れ、その資金で起業しようと考えていた。もっと言うと、「M&Aをしたらお金を配る」と言っていたおでこ代表の口約束を信じ、着いていっていた。配られることはなかったが。

ある程度想定はしていたが、やはりIPOの道が途絶えたのは心に来た。また見ていた夢が朽ち果てたのだから。

「課されている目標を達成していたら、このようなことは起きていませんでした」

その会議室で言われた一言。確かにそうだが、色々と考えさせられた。

もし自分が起業し、社員を雇い、共に同じ夢を追いかけてくれる仲間がいたとして、その夢を諦めざるを得なくなったとしたら、決して仲間のせいにはしないと決めた瞬間だった。

その出来事もあり、再度自分のやりたいことと向き合う日々を過ごした。

本当は私は何がしたいのだろう。何が得意なのだろう。まだ起業する勇気もないし、どこに向かって歩めばいいのだろう。

そんなことを考えている日々を過ごしていると、非日常のあるパーティーに行く機会があった。

豪華客船で東京湾の夜景を見ながら、忘年会をするという会だ。

船とは思えないデザイン

そこには、ビジネスやスポーツ界で活躍する人たちをはじめ、コーチングを学んだコーチの人たちがたくさんいた。

そんな人たちと1年を振り返りながら、来年何をなし得るか決断をする企画があった。

場のパワーはすごい。もちろん、その会を主催している方のファシリテーション力、場を作る力がすごいのだが、その時心の底から「M-1グランプリに出たい」という声が聞こえてきた。

そして、今まで漫才もコントもしたことがないのに、なぜか根拠のない自信が湧いてきたのである。確かにこれまでたくさんの人たちを笑わせ、場を盛り上げてきた自負がある。

だから自分にはできると思えたのだろう。

忘年会が終わり、帰り道の電車でお笑い好きの会社の後輩にメッセージをした。

「来年のM-1に出るぞ」

なかなか肝が据わった後輩である。

間髪入れずに「出ましょう!」と返ってきたのである。

それからM-1出場に向けたスケジュールを引いた。これまでのM-1決勝進出者の漫才を研究する期間、ネタを作る期間、アマチュアのライブに出てステージでのパフォーマンスに慣れる期間、どのネタで勝負をするか決める期間、M-1の予選期間。決勝までの準備期間。

当たり前に優勝する気概で、どんどんコトを進めていった。

会社の懇親会でネタを披露。アマチュアのライブに出る資金を集めるために、Tシャツの販売を行った。勝手にやればいいのに、人を巻き込みたがるエゴが出る

顔だけは一丁前のお笑い芸人

それで5~6回はライブに出れるお金が集まった。太っ腹なCOOは、私も後輩もCOOのチームメンバーだったためか、1万円をくれた。今でもお笑いで稼いだその1万円は、大切に額縁に飾っている。

人を笑わせるという好きなことでお金を稼げた最高の経験だった。

緊張には慣れているはずなのに、新宿のアマチュアのライブに出ようとすると、出番前に謎の吐き気に襲われたこともあった。新しい自分の一面を知れた。それはなぜか中野のライブ会場では起きなかった。

人のトラウマ、マインドのエラーは場所に紐づくことがあるのだと自分の体験を元に知った。

ちなみに、アマチュアのライブにはコロナ期間だったのもあり、お客さんは多くて3名。

自分たちだけの声が響く、神聖な空間だった。簡単に言うと、毎回鬼スベっていたのである。閑古鳥が泣いている。

予選が近づくに連れて、後輩とのネタのすり合わせが増える。代々木公園でくつろいでいる人に声をかけて、漫才を見てもらうという奇行にも走った。案外みんな笑ってくれた。それで自信もついた。

本番当日。

これまでの全てを出し切る機会だ。これまでの人生の中でTOP5に入るくらいワクワクしていた。と同時に、不安と恐怖でいっぱいだった。感情がおかしくなりそうだった。

会場には、アマチュアのライブでは考えられない人が入っていた。おそらく70~80名くらいは入っていただろう。

結果は



鬼スベった。これでもかと言うくらいにスベった。閑古鳥が泣いている。

会場のリアクションを直視しない私は、後輩にこう言った。

「大丈夫だ。予選は通過した。次が勝負だ。」

結果はもちろん、不通過である。

M-1グランプリの結果は置いておいて、自分のやりたいことを軸に人生でチャレンジをする素晴らしさを取り戻した

素人でM-1グランプリに参加しようと考える人は大勢いる。しかし、みんなエントリーまでは行くのだが、当日までにネタをつくってステージに上がる人は意外と多くはない。

当日会場に来ないエントリー者がたくさんいるのである。

おそらく、自分たちのような素人にとってありがちな目標は「M-1に出る」ことだが、私はその目標を「M-1で優勝する」ことに置いていたので出ることは当たり前の現状になっていた。

これが実は、コーチングにおけるゴール設定の素晴らしさであることを後で知った。


この顔は確かにスベる

自分の才能に気付いたアイデンティティーの最終出社日

会社がM&Aされる前日。

これまで一緒に働いた人たちに別れを告げて、おでこ社長にもお礼を伝えた。

苦労した思い出やみんなと切磋琢磨して頑張った思い出、悔しかった思い出、叶わなかった夢のこと、やめていった仲間たちの顔等が一気に思い浮かび、全員の前で涙を流した。

また過去に複数名のマネジメントをしていたこともあり、いろいろな人から感謝の言葉や手紙をいただいた。

全てに目を通しつつ、過去に退職した仲間からもらった手紙も再度読み返してみた。

インターン生から元新卒のメンバーまで。

そこで気付いたことがあった。

「私が会社で一番成長できたと思います」

社交辞令かもしれないがたくさんの人が、そう手紙に綴っていたのである。

私は人の可能性を信じ、その可能性の能力を引き伸ばす才能があるということに気付いた。

その気付きと、「M-1で優勝をする」という趣味のゴール設定をして駆け抜けた1年間の体験を通し、改めてスクールに通い、コーチングの勉強をすることに決めた。

そして自分自身も、再度仕事の領域でゴール設定をして、夢に向かって走る活力を得ようと考えたのである。

決めたら最後、コーチングスクールの入学料金を払うため、積み立てNISAを切り崩した。それでも足りず、妹に借金をして入学をした。

私が入学を決めたコーチングスクールはMindset Coaching Academy(旧名:Mindset Coaching School)である。「M-1で優勝する」とゴール設定をした時に船にいた複数のコーチが卒業しているスクールである。

また人生にワクワクを取り戻した瞬間だった。


コーチングの理論を自己適応する激動の日々。地元山形でのマーケティングプロジェクト始動。ホストも始める

新しい会社での仕事がスタートし、数カ月はこれまで携わっていた新規サービスに従事するも、コストセンターである事業部が引き継がれたため、新設分割した会社もファイナンスに苦労していた。

おでこ社長にお金は借りていたものの、毎月減る一方。

そう簡単にサービスでマネタイズすることもできず、私は役員のコネで、DeNAのヘルスケア事業部の新規事業開発をする部署で働くことになった。

その役員も、LINEの元役員だったり、人材系の上場会社の役員だったりと素晴らしい経歴の方で、事業開発のプロである。今も大変お世話になっている。

初めてのクライアントワーク。初めての大手企業。そして日本のIT企業といえば、3本の指に入るであろう有名企業のDeNAで働く経験。

今までにない不安を感じていたが、役員と一緒にプロジェクトに参画をしたこともあり、少しはその不安が和らいだ。

入った後、自分の得意領域であるカオスに飛び込み何とかする力とプロジェクトマネジメント力で突破していった。2年強プロジェクトに参画していたが、やめる頃にはチームで売上TOPになっていた。

プロジェクトに参画する頃、同時にコーチングスクールで勉強をしていたため、コーチングの理論を自己適用する日々が始まっていた。

コーチングのセッションはコーチングの理論だけではなく、コーチの生き様もその質に大きく関わってくる。そのため、今までにない挑戦をする自己適応は必須である。

仕事の変化もそうだが、プライベートも大きく変化していった。

地元山形を出てからもお盆や正月に帰ってはいたが、そのたびに廃れていく駅前の姿を見て「いつか山形に貢献をしたい」という気持ちが強くなっていた。

「いつかじゃなくて、今やろう。」

そう考え、地元企業でマーケティングに困っている企業を開拓することにした。

ただ何のコネもない状態で連絡をしても、誰も相手をしてくれないと考えた私は、今まで参加したことのない母校の同窓会に参加することにした。同窓会の懇親会で名刺交換をして、アポイントを取り付けようと策略したのである。

しかしその時はまだコロナ真っ只中。懇親会はなかった。ピンチ。

ただそこで配られた資料が、よくよく考えると最強の営業リストになることに気づいた。

なぜなら、同窓会に協賛している地元企業の広告がたくさん載っているからである。同窓会のパンプレットに広告を出すということは、その企業の決済者の誰かに母校出身者がいるということに等しい。

広告を出している企業から、特に支援をしたい、支援をしたら集客ができる自信の持てる企業10社をピックアップして問い合わせをした。

そしたら1社。山形有数の観光地である蔵王にある旅館から、返信が返ってきたのである。

その後、オンラインで商談をして受注を獲得。マーケティング支援をすることになった。

サイトの改善や、予約動線の改善。旅館のSNS投稿が増えるような仕掛け作り等、オンラインだけに止まらない、マーケティング施策を提案し実行していった。

その1つの施策であるインフルエンサーマーケティングでは、温泉Youtuberを誘致することに成功。その動画が海外でバズり、250万再生を記録した。

その時記念に撮ったスクリーンショット

山形の良さを世界にバラすことができた。また、少しばかり山形に貢献できて嬉しかった。

その後も、旅行サイトからではなく自社サイトからの予約数を増やすことができ、旅館さんの利益率アップにも貢献をした。

地方にもまだまだ可能性が埋まっていると感じた経験だった。

その他、人とお酒を飲み盛り上がるのが好きな私は不思議なご縁もあり、歌舞伎町のホストで土曜日のみ働くことになった。一瞬躊躇したが、私はカオスが大好物である。そのランダムネスに飛び込んだ。

ホストと言ってもプレイヤーではなく、ボーイである。ただ、客を案内するボーイではなく、これまた不思議だが姫(歌舞伎町では客さんを姫と呼ぶ)と話をして楽しませる役目だ。

自分の得意分野なため、すぐに色々な姫に気に入られた。お酒も飲め、話せ、笑わせられる私には天職だった。

もちろんそこでは社会の闇も知った。しかし、社会に必要な仕事であるとも思った。そこにはそこにしかない居場所があった。

歌も人並みに歌えるため、仲良くしてくれたホストのラスソン(その日に最も売上が高かったホストが、閉店前に好きな楽曲を歌うこと)で歌を披露することもあった。ギンギラギンの歌舞伎町で歌う歌は最高に気持ちがよかった。

やめる時に作った1本10万円のオリシャン。仲良くしてくれた姫が全部おろしてくれました。ありがとう。

始めることばかりではなく、やめることも決めてやめていった。

筋トレを趣味で8年以上続けていたが、いつの間にかHave toになっていたことに気付きジムを解約。

体重は5キロ落ちたが、着れなくなっていた好きな服が着れるようになり、総じて幸福度は増した。

また、趣味の領域では歌を極めようとボーカルレッスンに通うことに。

「路上ライブをやってみたい」と常々思っていたところ、福岡旅行でそのスイッチが入り路上ライブをしているシンガーに突撃する。

「私も路上ライブしたいのですが、いいですか?」

何がいいのかさっぱりわからないが、そのシンガーは快く引き受けてくれた。

酔っ払いのおじさんたちが盛り上げてくれた。中洲の夜に私の歌声を響かせることができた。

仕事漬けの毎日から人生が加速度を増して動き始めた。しかも、全方位的に。

もちろん、並行してコーチングの勉強とセッションを重ねて、卒業することができた。プロコーチとしての人生がスタートしたのである。


無料でホストの社員旅行についていき、太陽の塔で覚醒。起業することを決意

卒業してからもホストでの仕事は続き、気付いたらお店の新規立ち上げスタッフになっていた。もちろん姫を楽しませるボーイだ。

店のオーナーと仲が良かった私は、大阪の社員旅行に無料で連れて行ってもらうことになる。

ちなみに先ほどの福岡旅行もホストの社員旅行で無料で連れて行ってもらっている。まるでコジキだ。

ホスト達はUSJや賭け事に行く中、私は「太陽の塔」に向かっていた。

太陽の塔は、その中に入ることができ、「生命の樹」という作品を見ることができる。

1970年から48年の時を経て、2018年に作品が再現された。再現費用は1億円。寄付で集まったのは、その約1.5倍の1億5,739万円。

「確実になにかがある」

そう確信していた私は、高校の友人とボーイの先輩を連れて行った。

2人は半ば無理くり連れて行かれたこともあり、私とのワクワク度合いに倍くらい差があった。

太陽がサンサンと照りつける日だった。

太陽の塔がある万博記念公園につくや否や、その大きさに2人は圧倒されていた。

快晴な日の太陽の塔

駅から公園に向かえば、正面からお出迎え。よく見る太陽の塔のそれだ。

そして、3人で裏側に歩いて向かった。

裏側が見えたその瞬間、2人は鳥肌が立っていた。「黒い太陽」という真っ黒でダークな顔がそこにあるのだ。

背中で語る太陽の塔

サンサンと照りつける太陽が、そのダークさをより一層暗くした。

あまりにも圧倒された高校の友人は、

「俺、人生で初めてタトゥー入れたいと思ったわ。これなら入れていいわ」

とも言っていた。私は今すぐ入れてやりたくなった。

そして、いよいよ中に入って行った。

中では、「地底の太陽」という作品と、「生命の樹」という2つの作品を見ることができる。見るというより感じるに近いかもしれない。

「生命の樹」は、下から階段で太陽の塔の腕くらいまで登っていく作品である。

「生命の樹」の下から撮った写真

心臓をバクバクさせながら、階段を登っていく。

その途中で作品の意味を自分なりに解釈をした。自分が生きる意味を強く感じたのだ。

単細胞生物から始まり、魚類になり、両生類になり、恐竜になり、、、やがて人類の祖先が生まれ、最後まで登っていくと自分になる。

全ての生命が繋がっており、1つ1つの命に確実に意味があると思えた。生命エネルギー凄まじい!!!

そんな感動とともに、自分に問いかけた。

「今の自分は、自分自身の生命エネルギーを解放できているだろうか」

答えは "否" だった。

何十億年と紡がれてきた、今ここにある自分の命。そのエネルギーを解放しない未来が、これからあるのだろうか。いや、なかろう。

そこで、中学から夢見ていた起業することを決心したのだ。

そして会社を通し、たくさんの人の生命エネルギーを解放し、可能性を最大化させる決意をした

またその作品での生命の起源は、単細胞。

「何十億年と紡いできた単細胞のエネルギー、半端ないじゃないか!!!おま、現代では悪い意味合いで使われてるけど、めちゃくちゃすごいじゃないか!!!」

ということで、会社名をタンサイボウズにすることに。

次の日、大阪から帰った私は、起業しようと決心した際に頭に思い浮かんだ人間を誘うことにした。それがタンサイボウズの共同創業者である水野である。

新宿にあるボロい居酒屋で一方的に熱く語り、涙を流しながら起業しようと誘った。

誘われた方からすると、意味がわからなかっただろう。

「生命エネルギーの解放だ!」なんて急に言われて、涙を流しているのだから。

1週間後、「一緒に起業しましょう!」水野から返信があった。

タンサイボウズの誕生である。

あまりの熱量にやられ、疲れ果てた水野

これは後日談である。

彼は一緒に起業するメリット・デメリットを洗い出して色々考えたが、結論は出せず。悩みに悩んだあげく、サイコロで決めたらしい。

サイコロ、ありがとう。


住所が用意できず、共同創業者の実家で起業

起業を決心してから、いつ登記をするか決めた。

直近で縁起の良い日。「天赦日」と「一粒万倍日」が重なる2023年1月6日に起業することに。

所属していた役員の方に独立することを伝え、カエル役員やおでこ社長等、過去お世話になった人たちに挨拶をしに行った。

皆さん、応援してくれた。私は本当に人に恵まれていると感じた。

行政の手続きを進める必要があり、定款等の準備を進めて行った。

しかし、登記できる住所を用意するのに苦戦した。

バーチャルオフィスで登記しようと進めたが、理由もわからず審査落ち。しかも2度だ。

おそらく、タンサイボウズという一見ふざけた会社名が悪かったのかもしれない。一見というかむしろ、真っ直ぐにふざけているのだが。

2度目に落ちた時には、もう他の住所候補を探している時間はなかった。どうやら所有物件であれば法人登記できるということを知り、実家に相談をした。

しかし、それまで親には起業することを伝えていなかった。

「起業するから、家の住所貸して」

とLINEで軽く相談。何も聞かされていない父親はパニックを起こしたのだろう。

「無理」

即答で断られた。

1月6日に起業するために、残された手段は1つ。共同創業者である水野の実家の住所のみ。

彼は用意周到なところがあるから、事前に両親に言っていたのだろう。快く引き受けてくれた。

あの時、サイコロで違う目が出ていたら、私は起業できていなかっただろう。

再びサイコロに感謝をした。サイコロ、ありがとう。

無事、1月6日に岐阜県の多治見市で株式会社タンサイボウズが生まれたのである。


窓を開けたらお墓ビュー。築43年のおんぼろオフィスを借りる

起業してすぐの時は、水野とともに仕事をする場所がなかった。

カエル役員はアイデンティティーをやめて独立していたため、カエル役員の会社のオフィスを作業場として借りることにした。

しかし、タダで借り続けるのも悪いと感じていたのと、私の家から遠かったというのもあり、自社で借りることにした。

水野がちょうど賃貸の更新時期だったこともあり、水野の住居兼オフィスで、私の家から比較的近い場所で探すことになった。もちろんコストを抑えながらだ。

私は仕事ができればどこでも良かったので、場所選びは水野に託すことに。

そしたら彼が変な家を見つけてきたのである。

築43年の本社

外見がこれ。

入居初日の執務室


内装がこれ。

ギャップ萌えがすんごい家だ。

しかし、1つだけ難点があった。それは窓を開けると一面お墓ビューであること。

そのためかなかなか人が入らず、我々が入居する前にリフォームをしたようだ。

お墓ビューなのは気持ち的に嫌だったが、寝るわけではないし水野が良ければ良いということで借りることにした。

その名は「文化荘」

文化荘で働き始めるも、特に水野はミニマリストのため作業用の椅子も机も元の家にはなかった。また起業したてのためお金もない。

私の家にある物をかき集めて、作業場を整えた。水野はトレーニングベンチに座りながら仕事をする毎日。

テーブルはキャンプ用の机

長時間座る椅子ではないので、さすがに腰がやられ始めた。

このままではまずい、ということでほしい物リストでSNSを通しておねだりをすることにした。得意のコジキだ。

たくさんの方が応援をしてくれ、作業環境が整え始めた。

色々な人に支えられて生きていることを実感し、とても嬉しかった。


いつの間にかHave toまみれ。業務を委任しまくり、組織化するため拡大中

起業してから1年以上経ちある程度資金も貯まり、前より安定はしてきているが、いつの間にか業務がHave toまみれになっていた。

自分のスキルの切り売りになっており、起業時に決心をしたエネルギーの解放から少し遠ざかっていたのである。

このままではいけない。自分がやっていることを手放すと決め、共同代表に業務の大半を移管した。自分はタンサイボウズの未来のために生命時間を使う。

焦りと不安とともに、事業としてやってこれた自信もあった。

太陽の塔で感じた初心に立ち帰り、今やっていることを事業化すべく、採用を始めた。

Wantedlyを使い始め、求人を出し、新しいご縁に恵まれ早速1名ジョインしてくれた。

その後、その方の得意領域であるインサイドセールス業務の代行を事業化。営業代行事業を立ち上げた。

さらに採用を強化し、採用予算1万も使わずして80名のエントリーを獲得。そこから約10名の方に参画いただいた。これからも引き続き仲間を増やしていき、3期目で売上3億を目指し、駆け抜けていく予定だ。

タンサイボウズ、まだまだ道半ばですが、もっとタンサイボウで溢れる会社にしていきます真面目にふざけた最高におもしろい会社を作れるように精進してまいります。

私の自分史を読んで何かを感じてくれた人
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自分はなんだかエネルギーの解放ができていないと感じた人

あまりにも気軽なご連絡、お待ちしております!

長い文章でしたが、ここまで読んでいただき有難うございました!ともにエネルギーを解放していきましょう。

Let`s タンサイボウ!

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