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正しい「期待」のかけ方・その①

正しい期待とは?

誰かに期待してもらえると励みになります。活動や行動の意欲や原動力が生まれ、達成感につながります。正しい期待は喜びを伴います。
しかし、そうでない期待はプレッシャーとなり、自己嫌悪や自信喪失を生み出すかもしれません。期待する側の不安や心配が作用することがあります。

正しく期待するとは、どういうことか?
単に、「期待してるよ」と告げることではありません。
「君ならできる」と、無責任に励ますのも違うでしょう。
結果を出させるために何かを強制することでもありません。
心配だから放っておこう、というのも違います。

体裁と義務感で中途半端に言葉をあてがうのは危険です。
心と言葉が連動していないからです。
(これをキレイゴトと言います)
そんな人はむしろ「あなたには期待していない」と言ってしまったほうが、心と言葉が連動し、逆に相手を奮い立たせる材料になるかもしれません。
(意図的に使わないと、刺激が強くてトラブルを生みやすいですが…)

ではどうすべきか・・・?
相手に「自己理解を深めさせる」ことと関係していると私は思います。

あなたにはこういう持ち味があることを知っておいてね、と。
あなたがいると、私はこういう点が助かる、と。
私にだけでなく、ほかの誰かにも使ってほしい、と。
これが「期待する」の基本ではないでしょうか。

大人であれ、子どもであれ、自分の役割を知ることが第一歩。
そんなふうに誰かに期待してあげたことはありますか。
あるいは期待してもらったことはありますか。

期待されることへの抵抗

学校の先生から「今度の発表、期待してるよ」と言われ、「なぜですか?」と返答した中学生がいました。私は高い関心を持って本人にその真意を尋ねたところ、学校の先生の言い方に抵抗を感じたとのことでした。
ホントは「うまくいくかわからないから、期待しないでほしい」と言いたかったけれど、さすがにそれは失礼かと思い、ありったけの反感を込め、何食わぬ顔で「なぜですか」と絞り出して抵抗したというから、なんと律儀で正直、挑戦的で筋の通った子だと私は感心しました。
本人なりに礼儀も尽くした訳ですが、先生のほうはたまりません。実際その先生は「なんだよその言い方」と笑ってごまかしてくれたそうですが、内心、めんどくさい子だなと思ったのか、あるいは何かを学び気づきを得たのかは、知る由もありません。
本人曰く、意味もなく相手に期待するのは煽(あお)りであり無責任だと。
分析力の高い点も称え、私は彼に大いに共感したのでした。

使うタイミングがある

「期待してるよ」に類似する言葉として「がんばって」「心配しないで」「無理しないで」「見てるからね」「よかったね」「大丈夫だよ」などがあり、言われた側は「無責任」という感覚を相手に抱くことがあるようです。

「がんばってね」がプレッシャーになりうる言葉であることはもはや常識となって久しいですが、以前は違いました。
「がんばれよ」「はい、ありがとうございます」が1セットでした。
私も子どもの頃は何の疑いもなく使いましたし、使われました。
学校の先生から言ってもらうと、かまってもらえてむしろ嬉しいくらい。

しかし例の中学生のように抵抗を感じる子が多くなったことも事実です。
決して彼らが生意気なのではなく、反抗的なのでもありません。
言葉自体にこだわっている訳でもなく、自分勝手なのでもありません。
律儀で繊細、鋭い感覚の持ち主は、ワンパターンで雑な用法では自分の感受性を満たしてもらえず、ストレスを感じるということなのでしょう。

※これらの言葉に違和感を覚えるという人たちに話を聞きました。
(以下、その感想や意見です)
・「がんばれ」は、がんばるのは自分だけなんだと孤独になる。
・「がんばれ」って、外から言われてる感じ、観客席みたいに。
・「心配しないで」と言われても、私の気持ちなので、どうしようもない。
・「無理しないでね」は、私の無理ラインがどこか知らないでしょ?
・「見てるからね/見守ってるよ」は、勝手にどうぞ。
・「よかったね」は本当に良かったときなら素直にうんと言える。
・そうじゃないときに「よかったね」と言われても、モヤっとするだけ。
・「大丈夫だよ」は、は?って感じ。何が?そうじゃないのにって。
・でも、たくさん話を聞いてくれた後なら、素直にありがとうで返せる。

共通点は「言われる側の背景や気持ちを無視しないでほしい」ということでしょうか。自分よりも結果を心配される、自分の領域に土足で踏み込まれる、というイメージを抱くのかもしれません。

なるほど、、、奥が深いですね。
「たくさん話を聞いてくれた後なら…」というコメントを聞いたとき、言葉自体に罪がある訳ではなく、彼らの感覚がおかしい訳でもない、ということに私は強い確信を持ちました。
共感がどれだけ生じているかが重要、と読み取れるのですが、これは極めて健全でまっとうなセンスであることに気がつきませんか?

何をがんばらせるべきか

かくいう私も、がんばれ、大丈夫、などはよく使います。
別に昭和生まれだからという訳ではありません(笑)。
その人との関係上、使って良い瞬間が訪れたときに意図的に使います。

たとえば先日、就職面接が近い若者が相談に来ました。
面接対策の指導を終えたあと、帰り際に彼が言うのです。
「でもやっぱり心配です」と。
ドラマだったら、ここで「心配ない、君は必ず採用されるからがんばれ」と助言すべきでしょう。
私はそうは言わず、「そうか、心配だね」と言いました。
そして「当日、どんな心境で面接に臨んだのか、覚えておいて後でメールで報告してくれ」と伝えました。
「面接は運も左右するから、結果は仕方ない」
「それよりも気持ちがどうだったか、コントロールできたかを知りたい」
「それを忘れずに取り組むよう、がんばれ
と私は言い、彼は「はい、ありがとうございます」と昭和のやりとりがそこに再現されたのでした(笑)。

彼は見事採用され、幸い、喜びを分かち合うこともできました。

しかし、不採用だったとしても私は伝えるでしょう。
「自分の気持ちと向き合うことに取り組み、無事面接を乗り越えた」と。
「それでいい、期待どおりだ」と。

たとえ結果を出しても、調子こいているヤツには「期待外れだ」というかもしれません、、、かわいそうですが(笑)。

つまり、結果を出すようがんばれ、という助言には無理があるということです。運や条件の問題があり、自分ではどうにでもできないからです。
それよりも、「それに立ち向かうときの自分と向き合うこと」を目標にさせ、それに期待し、がんばらせてみてはどうでしょうか。
「よくできた」と評価できたとき、彼らは「自己理解」という成果を獲得し、次に進むでしょう。

「正しい期待」とはそういうことだと、私は長年のみんなとの付き合いから学び、教わりました。

次の記事では、年代別に助言してあげてほしいやり方について触れます。

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